【役員インタビューvol.1】10年先の未来を目指した黎明期~市川望美さん(後編)
Polarisは現在13期目。全国津々浦々、約200名のメンバーが業務委託で働いています。組織が大きくなってきた今、Polarisの5人の役員がPolarisとどのように出会い、Polarisをつくってきたのか、改めてインタビューを行いました。
1人目は、Polarisの創業者、市川望美さん。後編となる今回は、Polarisの起業後についてです。(起業に至るまでのストーリーはこちら)
”名もなきスキル”を持つ人たちが活躍できる仕事をつくりたい
――最初はどんなビジネスプランを描いていたんですか?
地域にいる人材が活躍できる基盤をつくることをイメージしていました。インターンシップのように、制約のある女性たちが地域の企業やお店の仕事を手伝って、自分の可能性に気づければいいなと。
やりたかったのは、子育てひろばで出会ったような女性たちが活躍できる機会をつくること。彼女たちは必ずしもハイキャリアだったり、特別なスキルや資格をもっているわけじゃない。だけど、一緒に子育てひろばをつくってきた彼女たちの可能性を、私は知っていました。彼女たちが活躍できないのは、社会が評価できていないだけ。
Polarisを設立するときには、「スキルのあるお母さんを集めて少数精鋭でやった方がいい。」と何度も言われました。だけど、それは私がやりたいことではなかったんです。「名もなきスキル」 を持つ人たちが活躍できる仕事をつくりたかった。
速く行くなら一人で、遠くに行くならみんなで行け
――一人ではなく、昌美さんと弥和さんを誘って3人で起業したのはなぜですか?
彼女たちはNPOにいたときから、子連れ飲み会をやったりしながら、Polarisの構想を話し合ってきた仲間。NPOでみんなで場をつくるという経験をしていたので、孤独に1人ではやりたくないと思っていました。一緒に荷物を持ってくれる人が中にいてくれることが必要だったし、誰かと共にやることに豊かさを感じていました。
それに、Polarisができることを突き詰めるには、いろんな人がいた方がよかったんです。たとえば、私はパソコンが使えたけれど、昌美ちゃんと弥和さんは、あまり操作に慣れていませんでした。名刺入力の案件を受注したときには、1件入力するのにどれくらいかかるのか、3人でやって平均を出しました。私がやると速いので、相場観がわからないんですね。
設立と同時に潮目が変わった社会
――実際に、どのようにPolarisは立ち上がっていったのでしょうか。
ビジネスプランコンペに採択されたのが2010年12月。その後すぐに起きたのが東日本大震災です。震災後は、自分の人生を問い直し、いろいろな生き方があっていいと考える人が増えました。「暮らしも仕事もどちらも大切にしたい」というPolarisの考え方も、震災前よりも理解してもらえるようになりました。
一方で、企業は一か所に社員を集中させることはリスクだと考えるようになり、テレワークの環境が一気に整いました。テレワークに必要なデジタルサービスが生まれ、クラウドソーシングのような、個人で仕事を請け負うプラットフォームも誕生。コワーキングスペースやシェアオフィスも増えていきました。
そこで、最初はインターンシップ事業を考えていましたが、「はたらき方をつくる」方にシフトしたんです。2011年の夏に仙川にコワーキングスペース「cococi」をオープンし、暮らしの延長で働ける場所を作りました。台所や畳の部屋があって、お互いの子どもを見守り合いながら働いていましたね。
黎明期につくった事業の萌芽
――そのころはどんなことを考えていましたか?
見ていたのは10年先の未来。すぐに収益をあげることよりも、10年後に価値のある選択肢をつくることを目標にしていました。なるべく軽い躯体でいるために、固定費はcocociの家賃ぐらい。役員報酬が固定でつくようになったのも、5年以上過ぎてからです。
黎明期は時間だけはたくさんあったので、自分たちがやりたいことをとことん深堀したり、いろんな人に会いに行ったりもしました。Polarisの思いを理解してくれる人に出会いたかったんです。
たとえば、今も報酬申請やいろんな場面で使っているサイボウズは、2012年にベストセラーになった「WORK SHIFT」の読書会で、サイボウズの人が隣りに座っていたことがきっかけです。
地域情報提供サービス“くらしのくうき”の前身となる事業は、世田谷の空き家活用の勉強会に参加したことで誕生しました。こうして、働くことに対する価値観が揺さぶられた時代に、Polarisのことを理解して、支えてくれる人たちに出会うことができたんです。
代表交代でフォロワーシップ経営へ
――初期のメンバーはどのような人たちでしたか?
最初に集まってくれたのはイノベーター気質の人たち。夜な夜なtwitterを見て、「やっと私の言いたいことをわかってくれる人がいた!」とPolarisを見つけて来る人が多かったですね。
その人たちに毎月固定で報酬を渡すことはできなかったけど、その代わりに、「10年かかってもやり遂げよう」という覚悟はありました。「いろんな人を巻き込んだからには、ちゃんとその人たちを連れて行く場所をつくらなくては。」という、今とは違うプレッシャーがあったと思います。
――2016年には昌美さんに代表を交代しましたね。
創業から数年経って、イノベーター気質の人たちだけでなく、ママ友に連れられてなんとなく来た人や、近所の人たちも安心して関われる組織にようということになりました。その流れで、みんなが安心して話をしやすい、寄り添いができる昌美ちゃんに代表を交代しました。
――代表交代に不安はありませんでしたか。
代表交代も子育てNPOのときに経験していたので、きっと良い方向に進むと思っていました。代表が出産で抜けることになったときに、みんなで危機を乗り越えたんです。強力なリーダーが抜ける代わりに、一人に頼っていたところを仕組み化し、チームや組織でできるようになった。それまでとは違う形になるけど、また別のあり方がつくられていくんですよね。
子どもたちに手渡したい未来をつくる
――改めて、創業時にやりたかったこととはなんでしょうか。
働き方の選択肢を増やすことです。自分の生き方に紐づいた仕事をする機会をつくりたかった。仕事を苦役ではなくて、はたらくことは楽しいことだと伝えたかったんですね。
今の働き方の選択肢を増やすことは、子どもたちの未来の選択肢を増やすことにも繋がります。子どもたちに手渡したい未来をつくるということも、起業のときに考えていたことでした。
Polaris創業時には幼かった子どもたちも、2人とも成人式を迎えました。成人式の後、子どもたちと話していたときに、「親が自分の人生を生きることは大事だよね。」ということを言ってくれたことがありました。親も1人の人間だということを受けとめてくれているみたいです。子どもたちにも何かを残せたのかなと感じた一言でした。
■インタビュー
武石ちひろ(Polaris)・戎晃子(Polaris)・杉山美穂(Polaris)
■執筆
武石ちひろ(Polaris)
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