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バルセロナ、一人になるための旅_1

三月、新しいインターン先の面接を終え、バックパックの準備もままならぬままひとり空港に向かっていた。
今回の旅は、本当に準備ができなかった、明日からどこにどうやって行けばよいのだろう、という後悔と焦り、面接の結果への不安で、旅を始めるにはあまりにもざわついた心だった。(ちなみに、面接には落ちた。)

けど、間違いなく今回の旅は自分の中であらゆる転換点となったはず。なんとか記録したい。



バルセロナに着いたころには、とうに深夜。
空港で飛行機を待っていたとき、急にぽっかりできた無の時間に(あまりにも不勉強なのではないか、)と猛烈な不安が忍び込んできて、そういえばスーパーブロックの勉強をしていたのだった。

深夜空港から市内へと通過交通用の道路を走るバスから見えるそんな「都市」は、これまで見たどことも少し違って、木曜の夜なのに人が沢山外に出る余地を多く蓄えているようだった。
なにもかもが広くて、夜風にあたる人々を大きく受け入れている道と道のあいだの空間には、大きな木々がわさわさ茂って葉っぱが風で動いていた。これがうわさに聞く、心地よい「都市」。


ホステルに着き、ひとまずガウディのうち数作品だけ予約して、力尽きた。
どこからこんなに人がやってくるのかというほど予約はいっぱいで、限られた時間帯の選択肢しかなかった。



次の日の朝。
まずは遠くて時間もかかりそうで、(旅の計画を練る時間もかせげそうな)リカルド・ボフィルのかの有名な集合住宅、walden7へ。せっかく駅まで寄り道して買った4日パスが使えず落ち込むも、グリッドを突っ切る道をまっすぐ、建物の前までバスで来られた。

まずは周囲をうろうろし、外壁を観察。まぶしい太陽の光のなかGLのカフェでくつろぐローカルたちからしたら、住宅の周りを何周もきょろきょろと歩く自分の姿は相当滑稽だったと思う。それにしても人が全然入っていかない。中に入るのは無理そう。いったんそのカフェで朝ごはんがてら落ち着くことに。



コーヒー(何も言わずともカプチーノが出てきた)はあつあつで、クロワッサンは甘いシロップがかかっていて、熱さと手のべたべたに二回驚いた。この朝ごはんセット、2.5ユーロ。すごすぎる。そしてこの後の旅でもこの国のコーヒーはいつでも熱々で、甘いパンは全部しっかり甘く、自分の中で「スペインの味」がひとつ形作られたのだった。熱々最高、大好き。
カフェでは一人のおばさんも、おじさんたちも、犬も、みんなが外に出て等しく太陽を享受していた。

そのあと、また二周くらいうろうろしたところで、建物からおしゃべりしながら出てきたご夫婦がドアノブを持って、どうぞ、と待っていてくれた。
え、いいのかな、やった。ドキドキしながら中に入ると、急な大空間と冷ややかさ、圧倒的な静かさ暗さに、さらにドキドキ。さっき「観光客だ」って後ろ指をさされたかな、と思ったおじいちゃんおばあちゃんをロビーで見つけ、さらにもっとドキドキ。
結局、背徳感とこの静寂と暗さに、建物の中にいる間はずっと、ドキドキしっぱなしだった。



しかしあんまり空間について語ることは好きではないので、感覚的なことを少し。


まず、暗さについて。ヨーロッパの建物は概して暗めだけど、それにしてもこの建物、暗すぎる。足元がややおぼつかないくらいに階段室は分厚い煉瓦の壁に覆われて暗い。申し訳程度の小さな灯りが、ぼんやりと質感のある壁を照らすのみ。

一方何層にもわたる巨大な吹き抜けに面して開けられた穴たちから、地中海、という感じの強い光が差し込んできて、それゆえ不思議と道には迷わない。明るいほうをめざして歩けば必ず吹き抜けまで出てこられる、と、ざらっとした手触りの壁を頼りに階段を下りながら、先にぼんやりみえる白い光を見て確信できた。日々こんなにいろんな感覚に頼りながら暮らすなんて、なんと豊かなことなんだろう、と思ってしまう。

そしてこれは風においても近しい。これまでそれなりに建築をめぐってみてきたけど、ここほど風をさわやかに心地よく、そしてしっかりと感じる建物はなかった。きりりとした風。それでいてやはり、大きな吹き抜けに面したテラスにたたずみ受けるフレッシュで太陽を含んだまぶしい風と、狭い廊下をひゅっ、と抜けていく風は全く違っていて、人々はそんな光や風を場所場所で読み取り、ちょうどいいところに椅子を、洗濯物を、植物を、置いて暮らしていたのだった。






しかし、行きのバスの中、見えるちょっとした集合住宅のファサードや(これは後でまとめたいな)、人々や、いかにも地中海の植物、という感じの緑に見入っていたら、ぜんぜん計画が立たなかった。どうしようか、と思案しながらひとまず帰りのバスに乗り込む。それにしてもずっと、いい天気。
そういえばひとつだけ、全然マークしていなかったのだけど、行きの道中、バスの中から(気になる、、)と思った建築群があったのだった。ひとりでいることによる選択肢の広さ、決定権、に誇らしくなりつつ、バスを途中下車。バルセロナ大学へ。



色んな人にじろじろ見られ、教授みたいな人ににこにこ挨拶されながら一周歩き、ただ広い交差点に出てきてしまった。私がひと冬で浴びた太陽と同じくらい今日太陽を享受しているのでは、というくらい、その広い交差点は光に溢れていた。行くあてがなくなった私はこの交差点の角に腰掛け、怒涛のリサーチをはじめた。既にマップにあるたくさんのピンを、決まった予定を加味しながら上手に繋いでいく。ヨーロッパに越してきて、こういう作業にもずいぶん手慣れてきたな。


周りでは学生や散歩のおじさんがいそいそと歩いていて、みんなそれぞれに今日の予定を持っているようで、この広い交差点の中きっと私だけ違って路頭に迷っているんだろう、と確信するとともになんだかとても不思議な気持ちだった。思い返せばきっとそれは狭い世界で生きてきた今まで感じたことのない種類の孤独、だったのだけど、みんなに等しく強く降る太陽のせいで、ぜんぜん寂しくも辛くもなかった。あるいは、寂しさをやり過ごせていた。
結局、夕方のグエル公園を加味して、ひとつだけ違うエリアに寄り道することにしたのだった。これだけを決めるにはあまりにも長い間、交差点に面した大学の塀に腰掛けて太陽に当たっていた。

寄り道先のMuseu Etnològic de Barcelonaは、こちらにまとめています。感動したな、、


最後に、わたしと同じ?「観光客」で溢れたグエル公園エリアへ。ちょっと早く着いて、寄ってみてもいいかも、と思っていた教会に行ってみた。外にはあんなに人がいたのに、ここには私だけだった。

木骨

グエル公園は、人だらけ。ここでは、また違う孤独感を感じていた。単純に1人だからなのか彼らと旅の目的がなにか違うからなのか、ここにいる人たちからは圧倒的に孤独だった。それは、先ほど大学に面した交差点で感じたものと、「圧倒的他による孤独」、という性質は似てはいたけれど、大学で感じていた風のような涼しさ爽やかさをもつ誰からも気にされない孤独は違って、もっとネチネチまとわりついてくる感じだった。場違いに一人だった私は恋人たちから、家族連れから、日本人から、じろじろ見られた。私もじろじろ見返して、人々を観察した。
ごった返す名所の隣には驚くほど静かで人のいない空間がぽっかりあって不思議だったし、「ガウディの設計した公園」だというのに人々の取る写真は高台から見える海の景色や人物ばかりだったし、有名なベンチには所狭しと人々が腰掛け誰もそのモザイクを観察せず、また観察する余地もなかった。(こんなことを書いたのは、のちに見たガウディのサグラダファミリアとはちょっと性質が違っていたから。でもみんな、楽しそうでした。)

ガウディの何がそんなに人を感動させるのか。
半ば疑念を持って行きましたが。
おそらく分割、と作った時代、なのだろうな、と思いました。


私はまたバスに乗り、気になる集合住宅を見に、一人になりに行ったのだった。

チュロスに並ぶみんなを地下鉄の入り口からそっと見る


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