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数学100点少女が、デザインの道へ|名久井直子 #2

人は、人生のどのタイミングで天職に出会うのかわかりません。数々の名作の装丁を手がける名久井直子さんがブックデザインにたどり着いたのは、社会人5年目のときでした。
高校の時点で「数学を極めるためには美的センスが必要だ」と考え、美術大学に進学した名久井さん。しかし、そこで待っていたのは挫折の日々でした。志望していた会社には入れず、なんとなく受かった広告代理店でアートディレクターとして働くものの、どこか満たされない気持ちを抱えていました。そこに訪れたのが、ブックデザインの依頼。手さぐりで作った1冊の本が、名久井さんに人生の転機をもたらしました。

名久井直子
ブックデザイナー。1976年岩手県生まれ。武蔵野美術大学卒業後、広告代理店勤務を経て、2005年独立。ブックデザインを中心に紙まわりの仕事を手がける。第45回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。主な仕事に、『ウィステリアと三人の女たち』(川上未映子)、『口笛の上手な人魚姫』(小川洋子)、『水中翼船炎上中』(穂村弘)など。

デザインの道に進んだきっかけ

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――小学生の頃から文学少女だった名久井さんですが、今のお仕事である「ブックデザイン」の「デザイン」のほうはどうだったのでしょう。

デザインにも、中学くらいから興味を持ち始めました。当時は、『イラストレーション』や『広告批評』、今はもう休刊になってしまっている『デザインの現場』といった雑誌を愛読していたんです。

――どれも、中学生はなかなか手にとらない雑誌ですね。

そうですよね(笑)。しかもどれもけっこう高価だから、おこづかいでとても全部は買えません。なので、本屋さんで立ち読みして、毎月どれを買うか厳選して決めていましたね。それらの雑誌がきっかけになって印刷というものに興味を持ちました。プリントゴッコでフルカラー印刷をしようと試みたこともあります。

――プリントゴッコ、懐かしいですね。メッシュ生地の網目からインクが通りプリントできる家庭用印刷機で、かつては年賀状の定番でした。

印刷というものはCMYK、つまり青っぽい「シアン(C)」、赤っぽい「マゼンタ(M)」、そして「イエロー(Y)」と「ブラック(K)」で色を表現している、と雑誌には書いてありました。そこで、好きだった絵をプリントゴッコでフルカラー印刷できないかな、と思ったのがきっかけです。まず、元の絵をカラーコピー機で、C、M、Y、Kの4つに分版する。それをモノクロコピー機で白黒印刷します。さらにそれを、プリントゴッコで製版して、C版にシアンインクをのせてガッチャン、と刷る。それが乾いたら、上からM版にマゼンタインクをのせてガッチャン、と刷る……とこれを繰り返すと、フルカラー印刷になるんです。

――原理原則を理解した上で実際に自分でやってみる、ということを続けてこられたんですね。そのあたりは文学少女というよりも科学者的な素質を感じます。

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そういえば、中学生の頃に担任の先生から「100点おねえちゃん」と呼ばれていました。

――数学で100点ばかり取っていたんですか?

そうです。なぜ先生に「おねえちゃん」と呼ばれていたのかはわからないんですけど(笑)。中学も高校も数学は得意でした。
高校のときは、数学が得意な子と休み時間に数学の話をするのが楽しかった。その子が、「積分は次元を増やしていくことで、微分は次元を下げていくことなんだ」といったように、わかりやすく説明してくれるんですよ。ある日、それを聞いた時に「この世界は数式で表せるんだ!」と衝撃を受け、何の変哲もない数式が輝いて見えたんです。その体験から、数学を本格的に研究するなら美大に行ったほうがいいのかなと思ったんですよね。

――サイエンスよりもアート的な感覚を磨いたほうがいい、ということでしょうか。

数式を「美しい」と表現することがありますよね。やっぱり、ある程度までいくと数学は知識だけでなく、美的センスみたいなものが問われるんだろうな、と直感で感じたんです。まずは美大に行こうと。

情報を整理し続けた美大時代

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――美大生の頃はどんな生徒だったのでしょうか。

落ちこぼれでしたね。成績表は優・良・可・不可という評価だったんですけど、「可」ばかりでした。デッサンや絵が本当に苦手で。なんとかまわりについていこうと必死でやっているうちに、数学で使っていた頭の回路もすっかりなくなってしまい(笑)、こうなったらデザイン一本で頑張ろう、と思うようになりました。

――中学、高校までは優等生だったのに。

そうなんですよ。ギャップもあって、かなりつらかったです。そのなかで、一つだけ自分の居場所だと感じられていたのが、「ダイアグラム」の授業でした。

――ダイアグラムというと、列車の運行表とかでしょうか。

それもダイアグラムのひとつですね。他にも、交通標識や地図、グラフ、見取り図など、情報を見える形で表現するものは全部ダイアグラムなんです。やってみてわかったのですが、私はこの情報を整理して視覚化する、という作業が大好きでした。
最初は、5つの丸が線でつながれていて、その先にまた一つ丸がある、みたいな単純な関係を表現する、ということをやりました。つなぎ方は変えなくても、その丸を左から右に置き換えたり、上に置いたり、3次元だと考えてひとつの丸を上に引っ張ったりすると、見え方は大きく変わる。そういうことを、延々と考えるのが好きだったんです。

――美大でダイアグラムの授業がある、ということを初めて知りました。

そうですよね。ダイアグラムは、絵の上手さは関係ありませんでした。そこも、自分の力を発揮できる、と思った部分です。楽しみすぎて、いつも授業開始の30分前には教室に行って、一番前に座っていましたね。

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けっきょく、卒業までずっとダイアグラムを研究していました。私、卒業制作もダイアグラムなんです。

――いまやブックデザイナーの方の卒業制作が、ダイアグラムとは驚きです。

今で言う、Googleを作りたかったんです。当時はまだ世の中のあらゆる情報を整理して見せてくれるシステムはなかった。Yahoo!やgoo検索の初期バージョンはありましたけど、今みたいに検索結果に幅がなかったんです。今のGoogleは、画像検索とかニュース検索とかいろいろできますよね。そういうシステムを作りたかった。

――それはまた、壮大な構想ですね。

でも、当たり前なんですけど、できないんですよ。それで、ゼミの先生に毎週泣きながら、「今週もできませんでした」と報告していました。どんなに考えても、どうやって情報を整理すればいいかわからない。
そのうち、ふと情報が膨大すぎるからできないんだ、ということに気づきました。それで、題材を百人一首に絞ったんです。

――100までだったらなんとかなりそうだ、と。

そう、その100首の歌同士の関係をいろいろな角度から見せる、ということはできると思ったんです。それで、百人一首のダイアグラムを卒業制作にしました。情報を絞り込むことで先が見えてきました。

広告制作のおもしろさと、ジレンマと

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――その頃、就職活動はどうされていたんですか?

とある電機メーカーを受けていました。他社に先駆けてカーナビを開発していた会社です。その製品自体は画期的だったけれど、地図などの見せ方があんまりよくないし、製品の説明書もわかりにくかった。そういうところを、デザインでもっとよくできると考えて、志望していました。

――ここでも、情報を整理したいという欲求があったんですね。

言われてみれば、そうですね。でもけっきょく、「君のやりたいことは、いずれ必要になるんだけど、まだ早い」と言われて最終的には落ちてしまいました。
そして、ダイアグラムとは全然関係なく、友人が「ここ募集してるみたいだよ」と教えてくれた広告代理店に入社しました。美大の先生方はびっくりされていましたね。「ダイアグラムばっかりやっていた名久井が広告代理店に行くのか」と(笑)。

――受けたら、うっかり受かってしまった、という感じだったんですね。

なので、最初は嫌だったらすぐ辞めようかな、くらいに思っていました。でも、大学の先生として来ていた、ソニーのデザイン室で働いていた方から、「名久井は代理店あんまり好きじゃないかもしれないけど、入社するなら3年はいなよ。そうしないと、何もわからないから」と言われたんです。で、じゃあ3年は絶対働こう、と心に決めました。

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――ブックデザインを仕事にしようとは思われなかったのでしょうか。

本は好きだったので、出版社の装丁室やデザイン部に入りたい、と考えたことはありました。でも、その年はあいにくどこも募集がなかったんです。翌年はあったようで、後輩が出版社に就職していて「ずるい!」と思いました(笑)。

――広告代理店には何年間勤められていたんですか。

けっきょく、7年いましたね。その先生の言ったとおりで、3年やるといろいろわかってくるんですよ。自分で仕事をまわせるようになって、醍醐味が味わえるようになる。そうするとおもしろくなってきて。

――どういう仕事をされていたんですか。

アートディレクターとして、テレビコマーシャルや新聞広告、雑誌広告、ポスターなどいろいろな広告を作っていました。有名企業のクライアントも担当したし、何億という大きなお金が動く仕事ができたのは勉強になりました。でもだんだん、その広告を誰に向けて作っているのかわからなくなってきちゃったんです。

――でも、広告にも、ざっくりとしたターゲットはありますよね。

「これは若いOL向けです」くらい、大まかには決めています。でも、OLは花柄が好きだから花柄を取り入れましょう、みたいになったときに疑問がわいてくる。対象がぼんやりしていて、ピントがどこにもあってない、という感じがしたんですよ。そんなときに、友人に自費出版の歌集のブックデザインを頼まれたんです。

本を作る楽しさにのめりこんでいった

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――本は、届ける対象が明確だった?

そうですね。街なかに貼るポスターよりは、「この本を好きな人」というのが見えやすいと思いました。単純に製品の出荷量の違いもあると思います。私には、規模の小さい商品が合っていたんです。

――通りすがりに目にするのと、手にとって買うのとでは、関わり方が違いますよね。本のデザインは、最初からできたんですか?

大学時代に、雑誌『WIRED』の編集部でアルバイトをしていたこともあり、エディトリアルデザイン(出版物のデザイン)は一応やったことがありました。でも、本を作ったことはなかったので、「本の作り方」みたいな本を見ながら、見よう見まねでやっていました。
今だったら簡単にできることも、当時は全然できませんでしたね。例えば、本文デザインでひらがなだけを小さくしたい、と思ったんです。今なら、InDesign(書籍制作に使われるソフトウェア)ですぐにそういう処理ができるんですけど、当時は1文字ずつ手動で小さくしていました。

――本を作ってみてどうでしたか。

1冊作るのにだいぶ時間がかかりました。でも、すごく達成感があった。広告と違って、この本を手にとってくれる人の顔が見える、と思ったんです。
それから、その本をきっかけにして、少しずつお仕事をいただくようになりました。最初は会社の仕事と並行していたのですが、2年経った頃にブックデザイン1本でやっていくことに決め、会社を辞めました。

――広告代理店の仕事は、安定していたわけですよね。辞めることに不安はありませんでしたか?

そんなに不安はありませんでした。今思えば、当時はブックデザイナーとして足りないところもたくさんあったし、いろいろなことを勉強しながら前に進む、という感じでした。でも、やればやるほど楽しくて、ブックデザインにのめりこんでいったんです。

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――それまでやっていたデザインとブックデザイン、違うのはどんなところでしたか。

商品として物体を作る、というところです。本が売られていくときには本屋や取次といった流通経路にのるので、物質としての強度を確保しないといけないんです。流通にのるがゆえの制約もあります。同人誌として自分で運んで売るなら、ぬいぐるみをくっつけようがなにしようが自由です。でも、市販する本にぬいぐるみをくっつけてしまうと、本として積み重ねられませんよね。

――運ぶコストが跳ね上がりそうです(笑)。

あとは、紙をどうするかなど、素材を選ぶところが多面的です。カバー、表紙、本文、帯など、いろいろデザインする場所があるので、それぞれにバランスをつけていくというのは、ポスターなどのグラフィックデザインとは違うところだなと思います。

――考える要素が多そうですね。

そう、本当に多いんですよ。今はもう慣れましたが、改めて考えると1冊の本を作るためにいろいろなことを決断しているな、と思います。


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この記事は、POLAが発信するイノベーティブ体験「WE/」のコンテンツを転載したものです。ぜひ「WE/」のサイトもご覧ください。
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