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えもいわれぬ気持ちに言葉を見つけていこう

枯れていたり、壊れていたり、乱れていたり、、単純に綺麗だとか美しいでは片づけられない風景に心を揺さぶられたり、何か複雑な感動を覚えることがある。これは一体何と説明したらいいのだろうか……。

コロナで在宅勤務で父を在宅介護をしていると、一歩も外に出ない日々を過ごすこともあった。心身の健康のためにも数ヶ月前からは、心がけて昼休みと仕事直後に各30分程度のウォーキングを日課にしている。家から30分で行って帰ってくることができる圏内を猛スピードで歩くことだけに集中しているのだが、思わずスマホを向けてしまう風景に出会う。それがまさに枯れていたり、乱れていたり、キレイキレイにされていない都会の中では違和感のある植物の佇まいだったりする。

おそらく誰にでも好ましく感じるものではないだろうとも思っている。尋常でないのだから嫌悪感を抱かれることもあろうし、ネガティブな問題をはらんでいる背景もあるかもしれないし、実害を生むこともあるだろう。おそらく近い将来には無くなってしまうのだろうと薄々思っている。なので、今ここでその風景を見つけ、感じることができるのは、またとない巡り合わせだ。だからせめてスマホで記録し、noteでつぶやきとして日々アップしているのだが、それでは足りないのも確かだ。何が足りないって、それは言葉だ。

父の声出しトレーニングで日々読んでいる「平家物語」や「方丈記」、「奥の細道」、「春望」、「荒城の月」の感性にも通じている何かがあるような気がしている……。

先日、朝日新聞に写真家である丸田祥三の「棄景」という廃墟の写真集を取り上げて、「廃墟に魅せられる人々」について書かれた記事があった(12月9日夕刊)。そこで美学者の谷川渥は「歴史意識があってこその感動だ」と説明している。

人が廃墟を美しいと感じ始めるのは17世紀以降で歴史意識が生まれてからです。現在が未来には廃墟化するだろうという時間的な意識がないと廃墟への感動はない。
日本人は「すべては滅びる」という諦念を持っているのですが、形が崩れていくものにひかれる気持ちも強い。廃墟ブームの根底にはこうした意識があると思います。

なるほど、私がえもいわれぬ感動を覚えている風景も未来には無くなってしまうだろうという時間的な意識があるからかもしれない。未来は切ない。このえもいわれぬ気持ちを文献や芸術作品などを糸口に少しずつ言葉を見つけていきたいと思い始めている。

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