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『エリザベート1878』のエリザベートに会いたい

※文章中に『エリザベート1878』のネタバレを含みます。
ご注意ください。

ハプスブルク帝国に滅びの気配が近づくなかで、とりわけドラマチックに描かれてきた、皇后エリザベート。

彼女については、ミュージカル『エリザベート』で馴染みがある方も多いんじゃないかな、と思う。
かく言う私もその一人。
いかんせん世界史が苦手だったこともあり、『エリザベート』を観ていなければ、存在さえろくに認識していなかったかもしれない。

ミュージカル『エリザベート』では、具現化された「死(トート)」が、自由を求めるエリザベートに強く惹かれ、追い求める。
しきたりではなく自分の心に従い、傷つきながら抗い続けるエリザベート。
その姿には、確かにトート様でなくとも、目を離せなくなるような輝きを感じる。
だから何度でも見たくなる作品なんだろう。

とはいえ、私にとってのエリザベートは、ミュージカル『エリザベート』から膨らませた想像図に過ぎなかった。

そう思ったのは『エリザベート1878』を見てしまったから。

『エリザベート1878』は、タイトルの通り、1878年という1年間のエリザベートに焦点を当てている。

1877年のクリスマス・イブに40歳を迎えたエリザベート。
現代風にいえばアラフォーのエリザベートは、くたびれた様子で、表情も硬い。目に光はなく、口元は引き締められたまま。
気絶したふりで公務を早引けしたり、煙草をふかしたりと、なかなかの擦れっぷりだ。
ミュージカルで思い描いた華やかなイメージとは、この時点で大きく離れてしまっていた。

しかし、いざ表舞台に立てば、彼女の美しさを称える歌や見た目に対する噂、おべっかが飛び交う。
歳を取ることを祝う一方で、変わらず美しくあれと迫る、その他大勢の無責任な圧力。この矛盾が、息苦しい。

どうしてエリザベートは、浴槽に沈んで息を止め、肺活量を鍛えては、誕生日ケーキのろうそくさえ軽やかに吹き消さなければならないのだろう?
薄切りにしたオレンジを食べ、スープをすくい、器械体操に明け暮れて、体重の数字に振り回されてまで。

彼女はいつも、コルセットを強く締める。普通の人間であれば、耐え切れず吐き戻してしまうほどの締め付けで、彼女は武装している。
「しがみつくものがないから」、努力するしかないのだと彼女は言う。
あまりに先のとがった、さみしくてかなしい孤独。
そんなにも孤独なのに、彼女が求める愛は手に入らない。
「私は強い」なんて言うひとほど、本当は弱くてしかたがないはずなのに。

夫のフランツも娘のヴァレリーも、エリザベートを理解できない。
息子のルドルフといとこのルートヴィッヒですら、彼女の欲しいものを与えられない。

コルセットはエリザベート縛るけれど、コルセットがなければ"皇后エリザベート"は存在しえないのだろう。
これまた矛盾が、エリザベートをどんどん不自由にする。

『エリザベート1878』のエリザベートは、子どものように素直で奔放で、愛を求めて疲れ果ててしまったひとりの人間だ。
私は初めて、血の通ったエリザベートに出会った気がした。
生きることにもがく、不器用な彼女がスクリーン越しにこんなにも近く思えるなんて、まったく予想もしていなかった。

エリザベートは少しずつ枷を外し、飛び立つ準備をする。
結局、彼女を認めて愛してあげられるのは、彼女自身でしかなかったのかもしれない。

けれど、もし私が1878年、エリザベートのそばにいれたとしたなら。
「ありのままのあなたが好きだよ」と伝えたい。
引き留められなくたっていいのだ。ただ彼女に心揺さぶられたわたしがいると、教えたいだけ。
そうしてできれば、一緒に寝転んで煙草をふかそう。世界に向かって中指をたてながら。


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