「邦題」という思想について(メモ)

『チェヴェングール』について、「もっと分かりやすいタイトル・邦題をつけたらよかったのに」という声をトークイベントとツイッターとでこれまで4回ほど伺っている。善意から出た意見と受けとめているので、まずは非常にありがたいことと断っておきたいが、正直に告白すると、本を準備している期間をつうじて、その選択肢はまったく頭になかったので、「あ、そんな感覚が存在するんだ」という新鮮な驚きがあったといわなければいけない。むしろ、わたしは近年、映画の邦題のつけ方を問題視する意見を目にすることの方が多かった(し、わたし個人もそれに基本的には賛成している)ので、世の中の趨勢としては邦題は廃止される方向に動いているのかと勘違いしていた。こういう欲望は例えば、映画に邦題をつけるのが普通だった頃の感覚の残滓であったり、あるいはタイトルがすべてを物語ることになっているラノベのタイトルなどの影響もあるのかもしれない。

タイトルを変えてわかりやすくすることの積極的な意味とは何だろうか。いくつかあるだろうけれど、「そうすればもっと多くの人が手に取りやすくなるはず」という考えがいちばん大きいのだろう。最近ではロシア映画の«Дылда»(“のっぽ”)が『戦争と女の顔』というタイトルで公開されている。これなどはわかりやすい例で、確かに『のっぽ』では何の映画だかわからないという意見はまあわかるが、かといって原作と目されているアレクシエーヴィチの本のタイトルに露骨に寄せる判断を、自分ならしたかどうか(英語では原題を尊重して“Beanpole”となっている)。日本とヨーロッパ圏とでは共有している文化的背景が異なることを考慮すべきという意見に対しては、観客・読者を信頼するとか、これからの受け手を作る(良い意味で“教育”する)という判断もあってよいのではないかと、第三者としては答えることができる。

翻って『チェヴェングール』について考えると、これは架空の固有名詞で、ロシア語でも特に意味のない単語なのだ(詳しくはあとがきを参照してほしい)。これをわかりやすくするとなると、おそらく内容に踏み込むことになるだろう。わたしの意見を申し上げておくと、基本的にはタイトルを改変することには訳者や出版社の解釈が入らざるを得ず、特に『チェヴェングール』のような解釈が問われる作品の場合には越権行為になってしまうと思っている。訳者や出版社に大きな裁量を認める意見じたいは信頼の証に他ならず、ありがたい限りだが、「より良いタイトル」については本を読んでくださった読者が各自、鉛筆でタイトルの下に書き加えていただければそれでよいのではないか。わたし個人としては、どう考えても、「チェヴェングール」というタイトルはそのままがよい、ここにこそプラトーノフの天才があるのだから、と考える。編集を担当してくれた倉畑さんからはこのことについて、「この本は『百年の孤独』と同じくらいのスタンダード・古典になる可能性があるから、タイトルは何ら変更しない方がよいと考え、タイトルの変更は検討しなかった」と聞いており(そう言ってくれたことは大変嬉しいことだった)、さいわい、訳者の考えが出版社でも共有される形となった。

それはさておき、各国語版ではタイトル改変の例がある(こちら(ロシア語版wiki)にわたしがまとめているので、参照していただいてもいい)。フランス語の旧訳では『チェヴェングールの野の草』、イタリア語の旧訳では『新しい生の村』、スウェーデン語の旧訳では『革命のドン=キホーテ』、ギリシャ語ではメインとサブが逆にされて『ひらいた心の冒険——チェヴェングール』となっている。軒並み「旧訳」と書いたとおり、おおむね1990年代以降に訳された版はそのまま『チェヴェングール』とするのが主流となっている。いちばん新しい翻訳の訳者として、この趨勢にあえて抗う必要も特には感じなかった。

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