『チェヴェングール』への道——あなたはどこから登攀するか(ブックガイド・ライト版)
かりに同じ高さで「並び」称される作品はあっても、これより高いところにはたぶんもはやいかなる作品も存在しない——そのような、ロシア文学の……いや、20世紀世界文学の臨界、極北、それがアンドレイ・プラトーノフの『チェヴェングール』(1927-29)だと言ってもよろしいでしょうか。よい。数十年のあいだ翻訳が待たれていた『チェヴェングール』がついに日本語で読めるようになります。2022年6月の刊行予定に向けて鋭意詰めの作業を行っていますので、どうかお楽しみに。
訳者の私たちじしんが、翻訳を進めていたここ3年ほどのあいだ、この作品にはたびたび驚かされてきました。『チェヴェングール』という異様な作品は、テクストに向き合うたびに、まったく異なる相貌を見せてくるのです。その茫洋とした複雑さを「難解」と言ってもよいのですが、しかしこの作品の難解さは、専門用語がたくさんあるとか、その時代の文脈を知らない人には伝わらないとか、そういうこととはわけがちがいます。語り口はむしろ平易ですし、時代背景を知らなくてもおそらくある程度は読め(読者のみなさまのためにはちゃんと読めるように註をつけてあります、しかもどの言語版より丁寧である自負があります)、意味を分かることはできるのですが、しかし最後のところで分からない。まったく難解である。何が、といえば純粋にその作品が非常に複雑に・精密に作られているからでもあり、作品が語ろうとしている内容が複雑そのものだからです。
『チェヴェングール』が語ろうとしていることはいろいろあります。むしろ、作者プラトーノフの関心事をすべて注ぎ込んでしまったからこそ、この作品はこんなにも複雑で取り留めなくなってしまったとも言えるでしょう。もはやいわゆる「小説」の枠を軽々と超え出てしまっています。この一筋縄ではいかない作品に近づくためのアプローチとして、5つの切り口を用意してみました。それから、もうすこし深みにはまってみたい人のために、ブログの方にもロシア文学にフォーカスしたFurther readingリストを準備しました→[https://junkdough.wordpress.com/2022/05/28/chvgr-booklist/]。
チェヴェングール沼へようこそ。
Ⅰ. 1920年代ロシアの空気
パスカル・ラバテ(古永真一訳)『イビクス:ネヴローゾフの数奇な運命』(国書刊行会〈BDコレクション〉、原作2001:2010)
国書刊行会がバンドデシネを出していて(!)、アレクセイ・(ニコラエヴィチの)・トルストイ原作で(!!)、1920年代ロシアを舞台にしている(!!!)。という驚きづくしの書籍ですが、『イビクス』と『チェヴェングール』の舞台は時代も場所も重なる部分が大きくて、それぞれの作品の延長にもう一方の作品があるのではないか?と思えるほど。革命勢力側の視点から描かれる『チェヴェングール』に対して、『イビクス』は混迷の革命下ロシア〜ウクライナを南に向かって逃れていく、ゴキブリのようにしぶとくしたたかな下衆人間の生きざまを描きます。主人公のアンチヒーローぶりが徹底していて痛快。A・N・トルストイの原作『ネヴゾーロフの冒険、あるいはイビクス』は1924年頃の作品。革命は起こったもののまだ国家・社会が再建される前のアナーキーでグロテスクな時代の雰囲気が、それはもう腐臭が感じられるほどによく描き出されている。むしろよくも当時に出版できたものです。ヨーゼフ・ロート(長谷川圭訳)『ウクライナ・ロシア紀行』(日曜社、2021)は、同時代を旅したオーストリアの作家の紀行文で、こちらは同時代を外の目線から味わうために(ベンヤミンの文章と並んで)おすすめ。
Ⅱ. ロシア思想の深みにはまる
佐藤正則『ボリシェヴィズムと〈新しい人間〉:20世紀ロシアの宇宙進化論』(水声社、2000)
革命の時代の思想家アレクサンドル・ボグダーノフや、「労働」をめぐる同時代の実験的思考、その底流にあるロシア・コスミズムについてコンパクトに書かれた傑作研究書。Industrial music for industrial peopleではないですが、新しい時代に新しい人間を造りだすという野心のもと、語られる一つひとつの思想が本当にぶっとんでいて、単純にわくわくしてしまう。プラトーノフも、もともとはボグダーノフや、かれを中心とした「プロレトクリト(プロレタリア文化協会)」の影響を受けた作家です。1920年代にはもろに影響が感じられる幻視的短篇や詩を書いていますが、社会の現実に触れるなかで次第に考えは変化していきます。
もしいわゆる「コスミズム」にご関心があれば、他の本がすべて入手困難な現在においては、ボリス・グロイス(上田洋子訳)「ロシア宇宙主義:不死の生政治」(『ゲンロン2』所収、ゲンロン、2016)を参照するとよいです(グロイス編のコスミズム・アンソロジーが翻訳進行中との噂も聞いています)。プラトーノフへのフョードロフの影響については、早い段階で英語の研究書がでており、ほぼ常識になっています。
(なお、本が好きな人はご承知だと思いますが、水声社の本をamazonで探すような不義理はしないようにしてくださいね。まだ新刊在庫があるうちに、本屋さんでの注文やhonto、e-honなど取次系の通販サイトで取り寄せることをいま特に強くお勧めしておきます)
Ⅲ. レーニン revisited
中沢新一『新版 はじまりのレーニン』(岩波書店〈岩波現代文庫〉、1998:2017)
白井聡『未完のレーニン:〈力〉の思想を読む』(講談社〈講談社学術文庫〉、2007:2021)
革命ロシアのことを考えていくと、不可能を可能にした人であるレーニンおじさんのことは避けて通れません。ソ連解体とともに過去の人として葬り去られようとしていたところ、世界的にはスラヴォイ・ジジェクらや、日本では中沢さん、白井さんのこの2つの著作によって再評価が試みられています。『土台穴〔基礎坑〕』はスターリンの時代の前触れとなった作品ですが、『チェヴェングール』は完全にレーニンの時代に捧げられた作品。非常に独創的な思想家・革命家としてのレーニンの考え方を知ることは、『チェヴェングール』をより深いレヴェルで読み解くためのヒントになります。某雑誌に中沢さんと白井さんの対談が掲載されているのですが、そこでかれらが言うとおり、レーニンその人やその文体の魔力みたいなものがたしかにあり、一読してちょっと憑かれるようなところがあります。
Ⅳ. 所有について
立岩真也『私的所有論』(第2版、生活書院、1997:2013)
木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社、2018)
『チェヴェングール』を通底するテーマとして一つ、「所有」ということが挙げられると思います。人間がものを所有するとはどういうことか。他を排して私が何か(特に私が作ったもの)を所有することはなぜ許されるのか。自然に対して、人間が所有を宣告することはそもそもできるのか、などなど。『チェヴェングール』の中では、主人公の義弟プロコーフィが「所有」を代表する人物像であると言ってもよいかもしれません。「所有」にかんする思考はまずはマルクスらの社会主義思想に属するものですが、問題の性質はあまりにプリミティヴでかつ人間社会(資本主義社会)の根底に関わるようなものであり、それはすでにあらゆる学問的分野を超えて、その根底にある自然哲学的な発想の域のものと言ってよいかもしれません。わたしの考えでは、日本でいちばん近い問題意識を持っているのがこのお二人です。立岩さんは社会学、木庭さんは法学の人ですが、二人とも「私有」「占有」とはいったい何か、どういう事態かというところから自分の学問を組み上げてきた人たちです。これほどラディカルに私たちの拠って立つ基礎を問い直し、そこからものを考える人たちを、わたしはあまり知りません。
Ⅴ. 人間と〈つくる〉
ハンナ・アレント(志水速雄訳)『人間の条件』(筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、原著1958:1994)
マルティン・ハイデガー(森一郎編訳)『技術とは何だろうか』(講談社〈講談社学術文庫〉、2019)
ハイデガーは1889-1976年、一時期その生徒だったアーレントは1906-1975年に生きた人たちで、プラトーノフ(1899-1951)は、この二人にちょうど挟まれるような世代に当たるわけです。世代的なものといっていいのかどうかわかりませんが、たまたまハイデガーやアーレントの問題意識とプラトーノフのそれは重なるようなところがあります。例えば、ハイデガーがこの講演集に収められた「物」や「技術とは何だろうか」で語っているようなことや、あるいはアーレントの有名な「労働」「仕事」「活動」の概念などをはじめとした、人間がものを作ることの意味についての思考は、『チェヴェングール』の中にも一貫して見られるテーマです。また、特にハイデガーについて言えば、ドイツ語を語源まで遡って解きほぐしながらラディカルに思考を鋤き起こしていくようなかれのやり方は、プラトーノフに似ています。二人とも、けっして既成の難解な専門用語に頼って哲学しようとはしませんでした。日常的な語彙のポテンシャルを最大限に活かす形で、頭というよりは腹で考えられたような哲学として、みずからの問題意識を深めていったこと、その構えはこの二人に共通しているのではないでしょうか。
藤本タツキ『ファイアパンチ 1〜8巻(完結)』(集英社、2016)
また、これは共訳者(石井優貴さん)の受け売りですが、現代日本で「人間がつくるもの・つくること(=フィクション)」の問題を一貫して突き詰めて考えている作家として、藤本タツキさんをスルーするわけにはいきません。特に『ファイアパンチ』は終盤に近づくとほとんど『チェヴェングール』からの引用としか思えないようなセリフや物語展開が見られますので、あわせて読んでみることをお勧めします。同じテーマ系では、魚豊『チ。』(小学館、2020〜)なども挙げられますね。
番外. 日本の『チェヴェングール』?とか
大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社〈講談社文芸文庫〉、1967:1988)
高橋和巳『邪宗門』(河出書房新社〈河出文庫〉、1966:2014)
日本の文脈で『チェヴェングール』っぽい作品……とちょっと考えてみて、わたしの狭い読書経験からは上記2点を挙げたいと思います。大江さんと高橋さんはいま調べていて、同時期の出版であることにびっくりしたのですが(いずれも時代に呼応して生まれた作品ということなのでしょう)、『チェヴェングール』が扱うテーマ——宗教・セクトの問題、革命の問題などなど——と共通する部分が大きいです。革命の問題を考えるとき、日本でいちばん近似の経験を考えると全共闘の時代に考えが向かいますが、革命が成功した国の作品と、ついに革命が成就しなかった国の作品とを引き比べてみるのも面白いはずです。
あと、これはこのブックリストの文脈ではどこにも当てはまらないので個人的なおすすめということになりますが、冒頭で申し上げた「同じ高さで並び称されうる」現代ロシアの作家として一人挙げておきたいのが、作品集を一冊だけ残して亡くなってしまったドミートリイ・バーキンです。このような異世界から突然侵入してきたような異様で暗鬱な文体がいったいどこから来たものなのかがさっぱりわからず、読者としてはもう熱狂して貪り読むほかはない類いの作家なのですが、影響源としてプラトーノフがいるのはたぶん間違いないと思います(じっさい、インタヴューでも名前は挙げられている)。その文体の暗さ、異様な語彙、文学的文脈からの浮き方、またおそらく何よりも表題作のタイトル(Страна происхождения…Происхождение мастера…Строители страны…)が、その傍証になるはずです。これはもう、未読であればぜひ読んでいただいて打ちのめされていただきたい。
ドミトリイ・バーキン(秋草俊一郎訳)『出身国』(群像社、2015)
→もうすこし深みにはまってみたい人のために、ブログの方にもロシア文学にフォーカスしたFurther readingリストを準備しました。もしご興味があれば、こちらもご覧ください。[https://junkdough.wordpress.com/2022/05/28/chvgr-booklist/]
『チェヴェングール』の到来まで、あと1か月。
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