004「猫と庄造と二人のおんな」 谷崎潤一郎

近代文学と一人の女学生

久しぶりに谷崎を読むことができたことに、結構な幸福を感じている。というのも、私は中学生のころから谷崎が大好きで、大学に行った暁には谷崎を専攻研究にしたいと思っていたほどだったりもする。私が特に谷崎作品を愛しているのには二つ理由がある。

Ⅰ 素直すぎるほどの願望の吐露

これは私が田山花袋の「蒲団」が好きなのにも通じるものではあるが、普通「若い女の使っていた布団の上に蹲りたい」なんて口が裂けても言えるわけないだろう。ましてや親しい友人であっても、人を選んで話すような願望であるし、それを小説にして世の中に出すなんておかしい、倒錯していると、中学生の頃の私は最初生理的嫌悪感を覚えた。徐々に含みのある言い方をすればこの世の摂理を知るにつれて、俗物に塗れることによってむしろ私は田山や谷崎のしている行為が崇高なものとさえ錯覚してしまっていた。だからこそ今、私は胸を張って谷崎や田山のような欲望に忠実な小説が好きといえるのも、読書中やましてや読書後も私のそういったちょっと人とは変わった願望を肯定してくれるというオピオイドのような心地良ささえ感じられるからだ。そういったところだと、江戸川乱歩も好きである。

Ⅱ 倒錯した関係性の中に見出されるある種の純粋

むろん、私は谷崎の「痴人の愛」が最高だと信じている。私の好みの設定(年の差や彼らの暮らしている雰囲気、パワーバランスなど)や展開(どんどんナオミにおぼれて依存していく姿)で、これ以上の純文学はこの世にないのではないかと思っている。もちろんあったら教えてほしいが。よく、「気持ち悪い」と評価されがちであるが、もはや私の中で気持ち悪いは終わった。それはもう誰もが通る感想で会って、私は欲望に忠実過ぎる姿や、ナオミに堕ちていく様子に美しさや純粋なものさえ見出されるのだ。「ここまでお前はナオミが愛しいのか!!」と何度か口に出してしまう。こちらも惑うほどの純愛なのではと思った。あまり的を得ていないが、私は倒錯した中に純粋を見出せる気がするので谷崎が好きだ。

「猫と庄造と二人のおんな」について

率直に言うと、「庄造がうらやましい…」。愛猫家でさえない中肉中背、それもむしろ太っている、猫ばかり溺愛してダメダメ男が?二人も奥さんもらってそれでも据え膳状態で?は?という感じで私は何度も庄造に嫉妬した。これが、谷崎の願望か?とさえも思った。結局猫も猫で雌猫だし、何なんだこいつ…私と代わってくれよ。女である私だって、お姉さんに取り合いされたいと思うもん。

それと単純に、「女を猫に見立てる」のはよくあったしむしろ理解できるときも多いし、私もこういった比喩は好む方であるが、その逆の「猫を女に見立てる」のはどれだけ気持ち悪いか分かった。痛感した。ものすごい嫌悪の後、乗り物酔いに似た感覚がしばし私を支配したのもよく覚えている。

ただ、この乗り物酔いに似た感覚は、私の作品に対する愛情というもののほうががされていないからなので、後2,3回読めばそれさえも通り越して快感へと変わるだろう。今回のまとめとして、以下の感想で締めくくろうと思う。

健気でかわいい気まぐれな雌猫を愛し、近くにいる健気な奥さんだって十分かわいかろうに、気にしもせずただ猫を溺愛する庄造がこの上なく憎い。

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