幸福なのに、それがとてつもなく恐ろしいの。だってわたし弱虫だから。
わたしの好きな太宰治の名言として
こんな有名な言葉がある。
『弱虫は、幸福をさえおそれるものです。
綿で怪我するんです。
幸福に傷つけられる事もあるんです。』
確かこの言葉を初めて知ったのは中学生で
この言葉の意味をしっかりと理解できたのは
高校生の頃だったと記憶している。
きっと中学生のわたしがこの言葉の意味を
理解することができなかったのは
その当時のわたしが「幸福」という言葉とは
無縁の生活を送っていたからだろうな。
そんな今のわたしは、多分きっと「幸福」だ。
色々と大変なことも辛いことも多いし
腹が立つことも悔しいことも多くあるけれど
その分やりがいもあって、楽しさを感じながら
毎日ちゃんと仕事に行くことが出来ていて
決して数が多いとは言えないけれど
今はなかなか会えないけれど
大好きで、大切で、失いたくない友人がいて
そしてとても愛おしい恋人がいる。
こうやって文にして書き起こしてみても
自分は恵まれているな、幸せだな、なんて思う。
だが、わたしは、太宰治と同じように
「幸福をおそれる弱虫」なのだ。
今自分が幸せだと思える環境にいることが
ほんのふとした瞬間に、とても恐ろしくなる。
その理由なんて、何とも簡単で単純なものだ。
それは今まで幾度となく、その
「幸福に傷つけられてきた」から。ただそれだけ。
仕事、時間、友人、恋人、そして信頼。
今まで何度も何度も、数えきれないくらい
わたしは多くの大切なものを失ってきた。
その度深く傷付き、悲しみ、自責の念に駆られた。
もう二度と大切なものを失いたくない。
失って傷付きたくない。辛い思いをしたくない。
だからもう「幸福」なんて、要らない。
臆病で弱虫なわたしは傷付くことから逃げたくて
そんな風に考えることも多々あった。
だが、人間の欲とはとても厄介なもので
気付けばまた「幸福な日々」に恋い焦がれ
そんな日々を追い求めてしまう。
もう何も要らない、なんて思っていたくせに。
「幸福」とは、なんて恐ろしいものなのだろう。
違法薬物には手を出したことはないけれど
「幸福」はきっと、そんな薬物なんかよりも
はるかに高い中毒性を持っているんだと思う。
だって一度でもそれを何処かで、何かで
感じてしまったのならもう
皆、それを追い求めずにはいられない。
いつか、わたしには
「幸福」をおそれなくなる日が来るのだろうか。
「弱虫」でなくなる日が来るのだろうか。
おそれることもなく、ありのままに、素直に
目の前にある「幸福」を受け入れて
それを喜ぶことが出来るようになるのだろうか。
そして、この言葉を遺した太宰治は
今もどこかで「弱虫」のままなのだろうか。
いや、それとも。
まだまだ「弱虫」なわたしは
今ある「幸福な日々」が、ほん少しでもいいから
永く続いていくように、と日々空に祈っている。
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