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この時期になると毎年思い出すこと。忘れてはいけないこと。

またしてもお久し振りです。
言うのであれば只今私生活がボロボロでして
テキーラとブロンと処方薬に頼り何とか生きてます。
こんな廃人生活から早く抜け出したいものです。

まあそんな前置きはここらで仕舞いにしまして。
全くもって眠れそうにないので
この時期になると毎年思い出すことを
つらつらと綴っていこうかな、と思います。

わたしの88で亡くなった祖父と御年96になる祖母は
若き青春時代を太平洋戦争と共に生きた人間だ。
そのため昔からわたしは二人から
戦争がどれだけ悲惨で恐ろしいものだったのか
それを何度も、何度も、繰り返し聞かされてきた。

祖父は当時まだ若く、徴兵されるまでは
「どうせ俺たちは戦争で死ぬのだから」と
新宿の街で喧嘩に明け暮れていたのだという。
実際に祖父の拳の骨は全て喧嘩により潰れていた。

だがそんな祖父にも徴兵されるときが遂に、来た。
共に喧嘩に明け暮れた関東の仲間や家族に別れを告げ
祖父は広島にある航空隊の整備兵となり
主に特攻機などの整備をしていたそうだ。
自分が整備した特攻機に乗り
自分と然程年齢の変わらない少年たちが
「御国のため」といって命を燃やして飛んで逝く。

「どうせ負ける戦いなのに何故ここまで」と
祖父は何度も苦悩した、といつだか話してくれた。

そしていよいよ祖父にも特攻命令が来たとき
日本は白旗を挙げ、太平洋戦争は終わりを告げた。
「あと数日終戦が遅ければ自分は死んでいた」と
生前祖父は何度も笑顔で語っていたのを覚えている。

そして祖母。祖母は7人兄弟の確か下から3番目。
祖父、父、上の男兄弟はみな戦死しており
学生時代の友人の多くも戦争で失っている。

そんな祖母からは、戦争について
いつ来るのかもわからない空襲警報の恐ろしさや
狭い防空壕から見えていた真っ赤な景色
そして仲の良かった友人、そして大切な家族を
戦争で失った哀しさ、寂しさを
「命の大切さ」と共に教えてもらった。

ちなみに祖父の喧嘩仲間も、いざ祖父が関東に戻ると
やはりみな、戦死していたのだという。

「戦争なんかただ命を奪うだけのものだ、あんなの二度とするもんじゃないんだ」

酔っ払った祖父は戦争特集などを見るたびに
苦虫を噛み潰したような顔でこんな言葉を
毎回毎回口にしていた。
その言葉の裏には、実際に戦争を体験した
祖父にしかわからない感情があったのだろう。

勿論わたしは戦争について実際に体験もしていないし
学校の授業や本やネットで得た知識しか
持ち合わせてはいない。 
もっと祖父が元気なときに体験談を聞いておけばと
今更ながら後悔していたりする。

念のため伝えておくが、わたしは右翼でも左翼でも
どちらでもない普通の思考で生きている。
でもそれでも、戦争というものが、この世界から
いつか、消えてくれることを祈っている。
実際に戦争を体験した祖父と祖母の思いや経験を
味わう人間がもう二度と現れてほしくはない。

今年ももうすぐ8月15日がやってくる。
あの日、わたしの祖父や祖母は何を思ったのだろう。
他の日本国民は戦争の終わりに何を感じたのだろう。
そんなことを自分なりに考え平和を祈りながら
今年は終戦記念日を過ごしてみようと思う。

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