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手話が読み取れない、という気持ち

TESLAに一度乗ってしまうと街中でも「走ってないかな〜」と何となく気になります。新潟市内で見かけたのは一回だけ。東京ナンバーだったような。

さて、今回のアメリカ・サンフランシスコで驚いたのは物価の高さ。事前に情報としては知っていたけれど実際に外食したり買い物をしてみると「わ!高いな」と実感。アメリカってカッコいいなぁと単純に思った19歳の時と違って、生活費のやりくりに苦労している現地の友人の話に衝撃を受けました。これが肌で感じるというもの。

この他にも肌で感じた出来事がありました。
肌で感じるってほんまに大事なんやね。物事を全て理屈で理解できるなら世の中に「喧嘩」という言葉は存在しないはず(!?)。

仕事関連の訪問先で、たまたま通訳者が来ないハプニングがあり、私の拙いASL(American Sign Language) でなんとかコミュニケーションをとりました。幸い、相手(ろう者、アメリカ人)の方がコミュニケーションスキル高くて私の聞きたいことを汲み取ってくれました。
もう、汲み取ってくれた!と思うと嬉しいやら申し訳ないやら。「ASLできるんだね」と褒めてくれましたが、さりげなくリスペクトしてくれる(本音はともかく)陽気さに救われながら会話を進めました。

そこで、たまたま相手先の聴者(アメリカ人)が同行者(聴者、日本人)に向かって英語で話す場面がありました。ろう者は私のほかにもいたので、英語で話しながら手話をしていました。いわゆる、英語対応手話であり、私はこの時に「あれ?ちょっと待ってよ、今なんて言ってるの??」と読み取れませんでした。さっきまでASLでの説明は何となく理解できていたのに、と頭が混乱しました。

アメリカのろう者同士がASLで話したときも読み取れませんでしたが、それとは全く違う感覚でした。ろう者同士の会話は文脈で何となく「あの話題かな」という感じで断片的な情報をキャッチできていましたが、英語対応手話はほぼ100%理解できませんでした。私自身の英語力がもっと高ければ理解できたと思うと「もう!学生の時に勉強していた英語を続けておけばよかったのに」と猛烈に後悔。それはともかく、視覚言語と音声言語の体系による違いを再度、肌で感じる出来事でした。

日本にも、日本手話と日本語対応手話(手指日本語)があります。詳細はこちらの方がわかりやすいので、二つの違いについての説明は割愛します。

普段、仕事を進める上でどうしても避けて通れない「日本語を使う場面」に私自身が慣れていたこと、脳内で日本語モードに切り替えたりしていたこと、経営者として聴者のスタッフの手話に合わせていたのでさほど不自由に感じていませんでした。むしろ、感じている場合ではなかったのかもしれません。

ろう者から「今の手話が分からなかったけど、どういう意味?」と確認してくることがあります。これが、私自身がアメリカで感じた「あ、読み取れない・・・」のと同じです。

とはいえ、日本語対応手話を使ってはいけないという話をしたいわけではなく、日本語対応手話が分かりやすい難聴者もいるので相手に合わせたコミュニケーションモードを切り替えられるとなお良い、という話なのですが、手話の世界で今問題になっていることは日本手話を体系的に学べる環境が少ないことにあります。

また、ろう者自身も「手話をせっかく覚えてくれたのだから申し訳ない。だから、わからないなんて言えない」と思ってしまう節があります。障害観、文化的な背景にも絡んでくるのでここでは割愛(2回目)。

何よりも大事なのは、手話を使うコミュニティの確立と地道な継続を通して手話を学ぶ人にとっても、ろう者にとっても最適な環境を作れたら、ということ。これが海外での経験から得たものであり、日々の仕事に活かしていけたらと。

理屈では分かっていても、やはり、肌で感じるって大事。
頭では分かっていても、身体で感じ取ったものはまた違った世界観を教えてくれます。

アメリカの話はまた次回に続く(かも)。

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