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ろう者から見たローコンテクストの国

前回の続き。今回はTESLA登場しません、あしからず。

あなたの部屋はあっちよ。はい、終わり。

バスのチケットはそこで買えばいいのさ。

方法が分からないってこと?教えるから、私についてきて。

いずれも今回の出張先で言われた言葉。英語なので、同行者の通訳やGoogle翻訳を使ってみました。

日本のように「なんとなく察してもらう」は全く通用しなく、自分は今何に困っているのか、自分は今何を考え何を伝えたいのかを明確にする必要があります。一見、雰囲気が怖そうな人に「I'm Deaf」と伝えると「OK,それで?」とジェスチャーとアイコンタクトで返ってきました。

以前、一緒に旅したろう者がNew Yorkの地下鉄で常に「I'm Deaf」と前置きした後、道を聞いていました。「OK、それで君が知りたいことはこういうことなんだね?教えるよ」とほとんど良い反応でした。

日本だと「ろう者です」と前置きした途端に相手が「え・・・?」と戸惑います。私個人の感覚だと8割くらいは「え・・・?どうしよう」の表情をされます。移民や様々な言語を持つ人たちを受け入れてきた歴史があるアメリカでは「英語の発音が下手でも、きんと話そうとする人」には敬意を払い、確認するのがスタンダードなのかもしれません(当然、地域や人によっては態度が冷たかったり差別もあります)。

日本では培った文化や生まれ持ったDNA、言語のニュアンスなどが島国の日本人同士で何となく理解し合っているため「わざわざ言わなくても分かっているよね」という感覚があります。
これに対して、ろう者の私にとってハイコンテクストの日本語に時々、一種のもどかしさを感じます。今も!

「言わなくてもわかると思っていた」という言葉は、時として暴力も備えています。
日本人の言わんとする表現に「ポジティブなのか、ネガティブなのかどっち?」と判断に迷う時があり、ボタンのかけ違いが起きることもあります。

もちろん、ハイコンテクストとして察する文化の良さもあります。あからさまに言葉にされて感傷的な気持ちになるよりは、穏やかにやり過ごせますし。
それでも、ろう者としてはもう少し、日本人の察する部分を「話す」ことで共有し合いたいなと思うのでありました。

聴者が時々、ろう者に対して言わない時があります。「わざわざそれ言うの?言わなくてもいいんじゃない?」と。

分かるけど、分かるけど、でも言ってくれなきゃ分からないもの。
耳聞こえないから判断材料になり得る情報も入手しづらいので想像するしかないため、誤解を招くこともあります。

とはいえ、ろう者も聴者に対して遠慮してしまう時があります。

人間、不完全だからそれでいいけれど、もし本気で愛し合いたい相手なら「話す」を実践しよう。
愛するとはそういうことなので。

サンフランシスコでのケーブルカーで「I want to go〜」とスマホで見せたら、イケメンの係員が笑顔で「sure!」。それなのに目的地に近づくと私の肩を掴んだまま笑顔で「ここで降りるなよ、俺と一緒にいようぜ」。
もちろんアメリカンジョークで他の乗客たちも爆笑。

続きはまた次回。

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