【詩を食べる】母との甘い記憶、「いにしへの日は」(三好達治)/春のおいなりさん弁当
ここは、詩情を味わう架空の食堂「ポエジオ食堂」―詩のソムリエによる、詩を味わうレシピつきエッセイです。春がやってきました。ピンク色が広がるレンゲ畑での淡い思い出を歌った三好達治[1900~1964]の詩を紹介。花畑に持っていける、じゅわっと甘いおいなりさん弁当も一緒にどうぞ。
春の気配と
バスに乗っていて、光が、風が、春の粒度になっていることに気づく。ぽんわりとした陽気。バスは海沿いをしばらく走り、菜の花畑を通りかかる。いっときの明るい夢のような春の野原。
三好達治の「いにしへの日は」の一節が、ふいに頭をかすめる。夢の残りに漂っているような、かすかな感傷が胸に広がる。母と過ごした幼い日は、もう戻ってこない。
やさしい記憶のほうへ
「いにしへの日は」という詩は、言葉づかいがやや古く、意味がスッと入ってくる詩ではない。けれども、それゆえに、遠い、やさしいヴェールに包まれた記憶のほうへと引き連れられていくような詩だ。まろやかな日差しのような日本語の響きを味わいつつ、(意味がわからなくてもとりあえずおいといて)ぜひ一度、口に出して読んでみてほしい。
第一スタンザでは「ははそはの母もその子も」と漢字まじりだったのが「ははそはのははもそのこも」とひらがなのみに変わっている。意識がふーっと遠のいていく、くりかえされる呪文のような。
母も「その子も」、であるから、その子…つまり自分自身もまた、変わってしまったのだ。それはこの世の定めであり、不可抗力であるということが、「ふたたびはせず」という余韻を拒む否定文にきっちり表現されている。
戻れないからこそ、いつまでも甘く思い出すのだろうか。この詩を読むと、さまざまな五感が体の奥で呼び起こされる。幼稚園に行くギリギリの時間まで布団のなかで母に甘えた、肌と寝間着と布団とがあたたかくとけあう感じ、幼稚園に行く道に大きなさくらんぼの木があって、母とわたしでひと粒ずつ食べたひそやかなときめき…あたたかさが、春のひざしのように降り注いでいた頃のことを、つらつらと。
そんな幼い日々はもう訪れないにせよ、心のなかに黄金の時間は残り続ける。詩を読むと、いつも胸の奥にしまわれた風景に出会える。
お弁当をもって春の野へ。じゅわっと甘い春のおいなりさんのレシピ。
この詩のごとく、春の汽車に乗って思い出をたどるとしたら、おいなりさん弁当はどうだろう。おいなりさんは、母のようによくしてくださるたか子さんという年上の友人のレシピ。あるとき、お重にぎっしりおいなりさんを差し入れてくれて、気がついたらぺろっと平らげるくらい美味しくて。たか子さんのお嬢さんが結婚するとき、詩を贈るのと交換で、レシピを教えてもらった。
手書きのレシピも、おあげさんと具は一緒に煮てしまう…という効率のよい作り方も、「母」っぽい。許可をいただいたので、読んでくださるみなさんにもレシピのおすそ分け。(少しアレンジを加えてある)
一口ぱくっと食べて「おいし!」と思わず目が見開かれる。じゅわっと甘いおあげさんに、シャキシャキの新ごぼうとレンコンは土の香りがして、レンゲ畑で花を摘む詩にぴったり。
具をまぜた酢めしを、俵のかたちににぎっていると、ふいに、小さい頃に母が作ってくれた俵のおにぎりを思い出した。子どもの頃は食が細かったので、ちいさめの俵おにぎりのうれしかったこと。久しく忘れていた。
おあげさんにくるまれたその姿は、おくるみに巻かれた赤ちゃんのように愛らしい。たか子さんにおいなりさんがおいしかったことを伝えると、「おふくろの味になるね」とのこと。赤ちゃんだった息子はもうすぐ1才。母から子へ。そしてまたその子へ。彼にとっての黄金の時間を、わたしが作ってあげる番が来たのだ。
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作者について
三好達治 みよし・たつじ[1900~1964]大阪府大阪市出身
三好達治というと、今回取り上げた「いにしへの日は」など、母をうたった幻想的な詩が思い浮かぶ。たとえばこの詩。
三好達治は、親に求められて入学した陸軍士官学校を中退…というか大脱走して退校処分となる。そこから彼の文学の世界ははじまった。叔母の助けで第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)に入学し、同級の丸山薫に影響されて詩をはじめ、やがて萩原朔太郎や室生犀星の詩に魅了される。東大仏文科へ進み、ニーチェやフランス文学にも深く親しむなかで、独自の世界を獲得していく。
ラブ・ロマンスにものめりこんだ人で、朔太郎の妹アイ(華やかな美人だった)に惚れるが、貧乏書士だった達治はアイの母に大反対され、朔太郎の口利きで就職したうえでアイとの婚約にこぎつける。しかし、会社が倒産したことで、婚約も破談となる。それから6年後に佐藤智恵子という女性と結婚し、二子をもうけるが、アイへの想いは断ち切れなかった。
アイとの破談から14年もたった1942年、アイの夫が死去したのを機に、達治は10年近く連れ添った智恵子との離婚を決意。念願かなってアイと暮らすが、アイは10ヶ月で逃げてしまった。今日紹介した「いにしへの日」はそんな傷心のなか書かれたもので、母に無条件の愛を求めていたのかもしれない。
ちなみに、谷川俊太郎を見出した人でもある。谷川俊太郎の父・谷川徹三(哲学者)が三好達治に息子の詩を見せ、それがデビューにつながった。
谷川俊太郎の初の詩集『二十億光年の孤独』には、三好達治による詩「はるかな国から・・・序にかへて」が掲載された。
彼は太平洋戦争がはじまると、戦意を鼓舞する詩を書いた。だけどそれは三好達治だけではなかった。鬱屈した時代を生きる詩人にとって、谷川俊太郎の出現は「冬のさなかに長らく待たれたものとして/突忽とはるかな国からやつてきた」という表現がふさわしいものだったのだろう。
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