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#23 はかない習性がおまえを支える(大畑専)/本気のお粥

大学生のとき。ひんやりとうす暗い大学図書館でも、ひと気のない棚。

『詩学』(1951)というぶあつい書物をパラパラとめくっていて、釘づけになった詩がある。「生理」(大畑専)という詩だ。

おまえは身を起す
つかれた肉體のなかから

おまえは衰えている
さまざまの形の内臓のなかで

おまえは見つめている
瞳孔から立去つてゆくトルソの列を

やるせない「弱さ」、どうしようもなく進行する「衰え」が続く。
しかし、さいごの二連はこうだ。

おまえの睡眠
おまえの排泄
おまえの愛情
はかない習性がおまえを支える

おまえは生きている
脱れ出ることの出来ない皮膚につつまれて

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生命の昏(くら)さとしずかな力強さを、ひしひしと感じる。圧倒された。わたしは重い『詩学』を開きっぱなしにしたまま、しばし放心していた。

おまえの睡眠/おまえの排泄/おまえの愛情…

病におかされていればいるほど、こういう習性は「はかない」。
かろうじて、自分をこの世につなぎとめていてくれるもの。

戦後詩には、ことばと生命との濃厚でギリギリな関係性が凝縮されている。
スリリングだ。

 「戦後において、詩の一篇、あるいは一行は、世界全体の重量に匹敵するような、存在を賭けたものだという詩の考え方がありました」(北川透)

この詩は、しずかだけど圧巻だ。
存在すべての重量に匹敵するような。

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はかない習性がおまえを支える

わたしの話になるが、10代の頃、体が文字通りズタボロで、丸7日間機能しなかったことがある。
水すら口に含むだけで、すぐに吐き出さなくてはならなかった。
起き上がれない、呼吸も、排泄も自力でできない。視界もおぼろげだった。

「停止」の状況から、さいしょに動いたのは、「腸」だった。
とつぜん、体のどこも動かないのに腸がギュルンギュルン動き出した。
食事。消化。排泄。なんとはかなく…滑稽な習性だろう。
わたしは生きようとしている。

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七日たって与えられたのはまっしろなお粥さん。
「食事ですよ」とも言われず、ただ、朦朧とかすむ意識のなかで目にとびこんできたのがお粥だった。
べつにうれしいわけでもなく、ただただ、白くてまぶしかった。

大畑専の詩を味わうレシピは、シンプルにお粥だと思う。
衰え、壊れたからだ。かすむ知覚。それでも、終わりではない。
はじまりの白粥。
はかない習性が 、まだ身体がここにあることを静かに伝える。
舌でさぐる淡味が生きているという事実を告げる。

本気の白粥のつくりかた

病院で食べた白粥がおいしかったかはまったく記憶にない。
ただ、ちゃんとこさえるお粥は格別らしい。

「本気で炊いたお粥は心底ウマいよ」
それを言っていたのは禅僧をしている友だち。「心底」に力が入っていた。本気、というのは、生米からゆっくり炊くということだ。
曹洞宗ではお粥を「浄粥(じょうしゅく)」とよび、大切な修行の一部としていただいているそう。

そのときは「ふーん」くらいに聞き流していたけど、今回、詩を味わうためにお粥を本気で炊いてみたら、彼の言ってたことはマジでした。戦後はお粥が「王様の食事」と言われていたのも、首がもげんばかりにうなずけます。

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お粥は生米か炊くと尊いくらいにおいしいので、ぜひやってみてください。身体が壊れていなくても、クーラーや猛暑でつかれている内臓にじんわりきくでしょう。

一人分で、生米2分の1カップ、軽くといで水を切り、水600cc。
沸いたら弱火にして時折かきまぜながら約20分。
くつくつと湯気を立てている土鍋のそばで、ごま塩も炒る。
火を止め、蒸らして10分。

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とろり、と炊きあがった白い粥。まずその白さが美しい。


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ごま塩をぱらぱらとふりかけて食べて、あまりのおいしさに心奪われた。
「おいしい、おいしい」とさじが止まらない。いつもはテレビをみながら昼ごはんを食べるけど、しんとお粥にむきあっていただく。

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香ばしいごまの香りと塩のあまみが新鮮なアクセントになって、どこまでも奥深い淡味が広がっていく。やわらかくとろみをまとったお粥が、じんわり胃におちて内蔵をあたためていく。やさしい。

なんでこんなに満たされるんだろう…。
生きているからだ。

大畑専は、この詩に出会って以来いろいろ探しているのだけど、素性がぜんぜんわからない詩人。それでも、出会った。刺さった。そしていま、あらためて味わっている。

ちなみに、お豆腐をすくってお粥にのせてお塩でいただくのも格別に美味しい。なんかヤベー食べものだったんだな、お粥…。

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お粥についての後書き。

ちょっとお粥にハマりそうだ。シンプルなのにこんなにおいしい。
きれいな場所にスーッと連れて行かれるような、ふしぎな食べものだ。
でも、お粥を作る前は、けっこう疑ってた。(笑)
なにを疑っていたかと言うと、おいしさもだけど、お粥の効用についてだ。

今回、お粥についていろいろ調べていると曹洞宗の道元さんが残した「お粥礼賛」とでもいうべき「粥有十利 (しゅうゆうじり)」に出会った。
つまり「お粥を食べていいこと10」。いわく、

一、 【色】 体の血つやが良くなり
二、 【力】 気力を増し
三、 【寿】 長命となり
四、 【楽】 食べ過ぎとならず体が安楽
五、【詞清辯】 言葉が清く爽やかになり
六、【宿食除】 前に食べたものが残らず胸やけもせず
七、 【風除】 風邪を引かず
八、 【飢消】 消化よく栄養となって飢えを消し
九、 【渇消】 のどの渇きを止め
十、【大小便調適】 便通も良い

まぁ、だいたいそうなんかな、と思うけど五番だけはちょっとビックリ。「言葉が清く爽やかに」。

社会人になってNVC(共感コミュニケーション)とかアサーティブコミュニケーションとか学んできたのに、まさかお粥にそんなパワーがある・・・?マジ〜〜〜?ほめすぎちゃう〜〜〜?(批判的)

でも、本気のお粥を食べた後には深く納得するものがありました。

言葉が清く爽やかになるか…はわからないけど、いじわるなこととか、ロジカルな言葉を口にするマインドじゃなくなるのはたしかだ。海賊ドーラのごとく肉をひきちぎって食べるなら、威勢よく「偉そうな口をきくんじゃないよ!」とか言えそうなもんだが、お粥を食べるとぜんぶ「いいんじゃないですか」と言っちゃいたくなる。食べものがその人を作る、と言うが、けだし、言葉もまた、食べものが作るのかもしれない。(数日後、コミュニケーションに悩む友人に相談されたとき、あれこれ話したあとで「とりあえず、お粥食べな」と口走ったくらいだ)

その昼はお粥だけで心もからだも満たされ、その後も夜まで空腹感もなくおやつも食べなかったしコーヒーも飲まなかった。

でもわたしは基本エッジきかせて生きていたいので、その夜はスペアリブとビールでした。笑。言葉で戦いぬきたいときもあるじゃん。海賊ドーラ、憧れます。

作者についての後書き

ずっと前から探しているんですけど、詩人・大畑専についてほぼ情報がありません。かろうじて、詩人であったこと、生没年は1917-1982ということくらい…。もし大畑専についてご存知のかたがいらっしゃれば教えて下さい。


そのお気持ちだけでもほんとうに飛び上がりたいほどうれしいです!サポートいただけましたら、食材費や詩を旅するプロジェクトに使わせていただきたいと思います。どんな詩を読みたいかお知らせいただければ詩をセレクトします☺️