志賀直哉

志賀直哉を読むと、なんてうまいんだと思う。
でも評価は二分されてるし、きらいな人はとことんキライって感じ。

わたしは、自分が志賀直哉をすげえと思っていることをよく忘れてしまう。
それくらい簡素で等身大の言葉だから。あまりに自然にとおってくる言葉だから。
久しぶりに本を開いたときに、「うおっ!? うますぎ!!!」となる。
じゃあなんでそんなうまいのか? 

まあ、みんなが言うように文体がすごいというのはあるが、
わたしがおもう志賀直哉のすごさって、「きわめてスクスク育った人間」であることだとおもう。

志賀直哉は、なんだかんだいってけっこう愛された人なんじゃないかしら。
それか、もともと自己肯定感が強めに「生まれてしまった」。
小説家なんて因果な商売をしているひとのなかではめずらしい存在だ。
大衆小説はどんなやつでも書けるが、文学は傷や業がないとできない。
志賀直哉の業は「どこまでも健康」ってところだとおもう。

だから彼の文章は、100%彼でしかない。
99%でも、120%でもない。志賀直哉は、いつもぶれずに志賀直哉だ。
そういう文章はとてもすくない。

だいたいの文学者(小説家、ではない)がなぜ文学を志すかというと、わたしは「生きたい」からだとおもっている。
基本的に生きることがままならない、自己否定しまくりのやつらが、
自分を深掘りすることによって、根源的な生/集合的無意識の普遍性にたどりつき、己や人間世界の傷を癒すための宗教的なしぐさだとおもう。

だが、志賀直哉にはそんな文学者ならだれしも持っている傷も喪失もたいしてないんである。
すくすくそだったんで、「THEおれ」の人で、不倫とかも、肯定できちゃう。
でもサイコパスとはちょっとちがう。ただただ「健康」なのだ。
わたしは、志賀直哉って宮崎駿に似ているとおもう。
ジブリ映画の主人公の男みたいな感じが志賀直哉にはあるのである。

ジブリの主人公の男って、なんかみんなちょっと理解しがたいとこがある。
アシタカとか、健康すぎてキモいくらいじゃないですか。(もののけ姫めっちゃ好きだけど…)
それはたぶん、宮崎駿が恵まれて育ったいいとこの坊ちゃんだからだと思ってる。主人公はだいたい、真っ当で健康な自己肯定感のもとに生きている。だからすごく本能的に動く部分がある。恋愛のときとか。アシタカも、サンにカヤのネックレスあげちゃうじゃん。でも、彼はとても健康だから、ああいうことをするんである。

「きみたちはどう生きるか」の原作は、めぐまれた人間への帝王学のような本だとおもう。志賀直哉と宮崎駿は、そういう場所に生まれた人間のようにわたしは感じる。(画家だと、マティスも彼らに似てる気がする)

わたしは志賀直哉を読むと、自己受容のもつちから、人間存在そのものの強さを感じる。
自己受容さえすれば、どんな人間でも不可分なき天才になれる。
そう、ただ「自分」でありさえすればいいのだ。
それのなんと難しいことか!

世の中の人がもし「自分自身」になったら、大体の人は今やっていることをやめて、思いもよらないくらい異なることをしてしまうだろう。

それくらい、自分と自分を一致させるというのは難しい。
実際のところそれを許される人はとても少ない。
だから志賀直哉は、名だたる文豪たちから小説の神様とよばれるのだろう。


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