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沈黙の世界(7)生と死の沈黙、そして騒音の世界

マックス・ピカートの『沈黙の世界』という哲学書の紹介です。

前回、沈黙と言葉はともに、「真理」「美」「愛情」といったすぐれたものとつながっていることを確認しました。

他方で、現代の騒音のなかで、人々が憂鬱になるのは、沈黙と言葉に変質が起きているからではないか、と言われました。

さて、今回は、沈黙のいわば恐ろしい側面、死や儚さや哀しみを見てみます。

人間は、自己が生まれて来た沈黙の世界と、自己がそこへと還っていくもう一つの沈黙の世界──すなわち死の世界──との間に生きている。

言葉もまたそうだ、とピカートはいいます。

そこで、「沈黙の世界」の二面性を見るために、ジャン・パウルの詩文が引用されます。

そして、汝の胸のうえの最後の夕暮れの嵐のなかへ、なおも穏やかな太陽は戯れるがごとく降りそそぎ、
つかの間の俗世間を作り上げているあらゆる地上的なものは、汝にとってあまりに小さく、また軽きに過ぎた。
いまや、汝は正しき存在のなかに安らっている。死がその暗鬱な心から、主苦しい生の雲をのこりなく取り除き、
彼の人の光は、ふたたび火のなかに住んでいるのだ。
(ジャン・パウル)

ここに見て取れるものがあります。

一方には純潔さと根源性が、しかしそれと同時に、死への準備と、風のように吹きすぎてゆく儚きものの哀しみとが。

純潔や根源性は、生まれてくる前にあった「沈黙の世界」を表し、死や儚さは死ののちに還る「沈黙の世界」を表しています。しかし、

今日では言葉は沈黙のこの二つの世界から遥かに遠ざかってしまっている。言葉はただ騒音から発生し、騒音のなかで消え失せていくだけである。

現代のうるさい文明において、沈黙は二面性の深みをなくします。沈黙は単に「騒音がない状態」を指すだけです。その時には「死」も厳粛さをなくし、

費(つか)い果たされて空っぽになった生、それが今日の死なのだ。
今日の言葉はまるで自動的に喋っているかのようだ。

それは撒き散らされた空虚なものです。

今日の言葉のなかには何か硬いもの、頑固なものがあるが、それはあたかも、自己の空虚さにもかかわらず、存在し続けようとする焦燥(あせり)であるかのようなのだ。

その「焦り」が「絶望」と交替で現れている、とピカートは診断します。

次いで、忘却の話が出てきます。ここでまた肯定的な話に戻ります。

言葉は、沈黙のなかに消えていき、忘れられます。それはいいことです。なぜなら、

言葉が沈黙に対してもっている至上権は、そのことによってやわらげられるのである。
言葉は忘れられる。
そして忘却はまた寛恕(ゆるし)を準備する
それは、言葉の構造のなかに愛が織り込まれていることの証拠なのだ。

そして、この忘却は「言葉の消滅」ですから、

死もまた言葉の構造のなかに織り込まれている

こうして、沈黙の二面性がまた確認されます。愛や寛恕とともに、取り戻せない死と、儚さ、哀しみを、言葉はもっているわけです。

ところが、

今日では、言葉から忘却が奪い去られてしまっているように見える。

本来ならば、ふっと生まれ、真理を告げ、すっと消えていくはずの言葉は、

見渡すかぎり人間を取り巻いている言葉騒音のなかに置かれているからだ。

この「言葉騒音」のなかでは忘却も寛恕(ゆるし)もない、とピカートはいいます。

いつまでも騒音が消えず、そのなかで意味の深みをなくした言葉が、漂い続けるからです。

現代人の神経過敏はそこに由来している


最後に、本来の沈黙と言葉を見ておきましょう。

沈黙のうちにある言葉は、目に見えるものを超えた一つの世界のなかに置かれている。なぜといって、目に見えるものを超えた世界……沈黙とはとりもなおさずこれなのだ。
言葉のもっている透明な微光
言葉が黙しながら人間のなかに生きているとき、この微光が言葉のうえに降りそそいでいる。

私たちは、言葉を発する前の、沈黙にじっととどまることによって、騒音に満ちたこの世界で、なおも言葉に降りそそぐ星のような微光を待つことができるでしょう。


『沈黙の世界』マックス・ピカート、佐野利勝訳、みすず書房、1964

また、沈黙を忘れた世界を描いた「児童文学」が、ミヒャエル・エンデの『モモ』です。それは大人のための文学といえます。


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