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生と死が交差する「星の時間」とは──『熊楠の星の時間』より

粘菌の研究をした博物誌家で、大学者の南方熊楠(みなかた くまぐす)。
彼について書かれた『熊楠と星の時間』(中沢新一 著)という本から、「星の時間」について引用します。

「星の時間」はめったなことでは人の世界に訪れない。
「星の時間(Sternstunden)」について作家のシュテファン・ツヴァイクがこう書いている(ちなみにこの語を造語したのもツヴァイクである)。

以下はツヴァイクの本からの引用です。

しばしばただ一分間の中に圧縮されるそんな劇的な緊密の時間、運命を孕むそんな時間は、個人の一生の中でも歴史の経路の中でも稀にしかない。
こんな星の時間──私がそう名づけるのは、そんな時間は星のように光を放ってそして不易に、無常変転の闇の上に照るからである。
(シュテファン・ツヴァイク『人類の星の時間』片山敏彦訳、みすず書房)

『熊楠の星の時間』の著者、中沢新一は熊楠の天才の閃きに、この「星の時間」を見て取ります。

長い準備の時をへて、それまで熊楠の精神の中に出現しては消えていった、無数の思考の萌芽と断片が、短期間に驚くべき密度をもって、
漆黒の宇宙空間にまばゆい光を放つ星となって出現したのである。

その時、南方熊楠が着想したことは以下のようなことでした。

なお、熊楠は那智の森(和歌山県、熊野)に籠もり、孤独に粘菌の観察と研究をしていました。

細微分子の死は微分子の幾分または全体を助け、微分子の死は分子の生の幾分または全体を助け、ないし鉱物体、植物体、動物体、社会より大千世界に至るまでみな然り。
常に錯雑生死あり。

熊楠の手紙にある言葉です。つまり、生と死は複雑に絡み合い、もはや一体となって、深い森のような生命のあり方を持続させているということです。

熊楠がその研究に没頭した「粘菌」(ねんきん)という生命体は、植物とも動物とも分類できない、原初的な不可思議な生物でした。

粘菌は、ある時は植物のように静止し、繁茂し、胞子を撒き、またある時はアメーバ状になって捕食をしながら動くという、変わった生態を持ちます。

熊楠は、そこから植物と動物の壁を越え、生命の全体と死に思いを巡らし、世界全体を思索したのでした。

こうして、科学と思想と芸術的な集中力が交わるところに「星の時間」は生まれたのでしょう。


『熊楠の星の時間』中沢新一、講談社、2016

ちなみに、ミヒャエル・エンデの『モモ』のなかにも「星の時間」という言葉が出てきます。エンデは、ツヴァイクからこの言葉を取ったのかもしれません。



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