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沈黙の世界(5)音楽としての沈黙と真理に支えられる言葉

マックス・ピカートの『沈黙の世界』より、「音楽」について語られたところを引用します。

音楽のひびきは言葉のひびきのように沈黙に対置されているのではなく、沈黙と平行している。
あたかも、楽の音は沈黙のうえを流れてゆくようであり、
音楽は、夢みながら響きはじめる沈黙なのだ。

言葉は、沈黙と密接につながっていながら、対立もしていました。ところが、ピカートによれば、音楽はそうではないのです。音楽はいわば一種の沈黙なのです。

音楽は、人間の魂に一つの広さをあたえ、この広さのなかでは魂は何の不安もなく、安心していることができるのである。
そして、人間の魂のなかでは、沈黙はもろもろの事物との無言の調和として、そしてまた、耳に聞こえうる調和として、とりもなおさず音楽として存在している。

つまり、音楽とは、沈黙のなかで生まれ、たゆたい続ける深い調和のようなものなのでしょう。

そうした沈黙を人間が持っているからこそ、その土台のうえに言葉が、沈黙以上のものとして生まれることができます。
言葉は沈黙以上のものである。それも、言葉のなかには真理が姿をあらわすからに他ならない。

言葉というものは、真理を告げることができます。言葉それ自体は短い、沈黙に生じた「亀裂」にすぎないかもしれません。

しかし、真理があることで、

言葉は持続性を獲得する

のです。もし、

真理がなければ、言葉は、ただ沈黙のうえにただよう漠然たる霧のごときものにすぎまい。

その時、言葉は「崩れ落ちて」「不明瞭な」ただの音になってしまいます。言葉は、真理に支えられています。

そして、言葉が生まれる時、その土台になった沈黙は「真理をとりまく神秘性」をもつようになるのです。

『沈黙の世界』という本では、ここに、ふっと不可思議な一節が差し挟まれています。

沈黙が常にそばにあるということは、取りもなおさず、また寛恕(ゆるし)と愛とがそばにあることを意味している。

だから、沈黙という土台があるならば、わざわざ寛恕や愛を「創りだす必要がない」ということです。


『沈黙の世界』マックス・ピカート、佐野利勝訳、みすず書房、1964

どことなく、ミヒャエル・エンデの『モモ』という本で、主人公の女の子モモが「聞く」ことと、この沈黙は深く通じているようです。


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