ひとりの手にゆだねるには大変なもの

親になってはじめて味わった感情は数多くあるのだけれど、そのひとつに「自分ではないだれかの命を、自分ひとりの手にゆだねられている恐怖」というのがあった。

とくに第一子で、まだ生まれてまもない0歳児を、日中ひとりでみている環境というのはそれを感じやすいと思う。

わたしも娘が0歳のころ、“この子にとっての唯一の栄養源は母乳やミルクだ、それが足りなかったら命にかかわる”と、毎回ノートに記録をつけて管理していた。それでも母乳量はミルクとちがって明確にはかれるわけではなかったから、体重が減ったといっちゃあ「お母さん、あなたが悪い」と責められている気になって、とてもつらかった。

はたまた娘がつかまり立ちをはじめてしばらくしたころ、公園で遊んでいて、あやまって低めの遊具から落ちて頭を打ってしまった。ほんとうに背筋が凍った。幸い何事もなく元気だったのだけれど、遅れて重篤な症状が出ることもあるから48時間は気をつけなければいけないと聞き、そこから数日はずっと心が重たいまま不安で過ごしていた。

“自分のせいだ。自分の管理下にあったというのに、何かあったらどうしよう”。

そんな気持ちがあたまとむねをぐうっと支配して、息が苦しくなる。

1歳半をすぎたいまでは、0歳のころにくらべるとだいぶ体つきもしっかりとして、「ひとりの人間」感が出てきたので、以前よりはそういった気持ちも軽くなってきたように思う。

なにより、以前より父として格段にパワーアップした夫や、新たに保育園という味方を手に入れたことで、「ひとり」じゃなくなったことが大きい。

ただそれでも、高熱を出して食欲がないときは不安になるし、転んで頭を打ったりしてしまうとヒヤッとして、数日間は不安でドキドキしている。

* * *

昨日、猛烈な台風が関西をおそった。

わたしは天気のおだやかな九州にいて、台風被害があれほど大変なことになっているとはつゆしらず、病後で保育園おやすみ中の娘を抱っこしてゆらゆら歩き回り、ようやく眠らせるのに成功したところだった。

ふう休憩!と自分もその隣に横になり、スマホを手にとる。

なにげなくtwitterをひらいたら、衝撃的な映像や画像がつぎつぎと目に入った。なぎ倒される木に、横転するトラック、軽々と飛ばされる車、吹き飛ばされるマンションの屋根。家のなかにいても、壁にパイプのようなものが刺さってきたという写真や、何かの破片が窓から飛び込んでくるような映像。

それを見て、もしここが暴風域の中心部だったら、と思いを馳せてみる。そうして、思った。

“ああ、ひとりで赤ちゃんをみているお母さん、不安だろうなあ”。

もちろん、他の環境の方が不安ではないという意味では決してない。ただ自分の環境と近いから、育児中のシーンが想像がしやすかったというだけである。

たとえば生まれたばかりの新生児をようやく家に連れてかえってきたところだったら。そんな想像をすると、その不安感は想像だけでも、わたしはちょっと苦しくなってしまう。

外は防風が吹き荒れて、窓の外ではいろいろな破片やらが飛んでいて、駐車場では車が飛ばされている。家のなかにじっとしているしかないけれど、いつ窓ガラスを突き破ってくるかもわからない。twitterやテレビで情報を得ればえるほど、不安はあおりたてられる。

そんななか、自分ひとりではなくて、同じ部屋に、生まれたばかりの命がある。もちろん、まだひとりでは動けない。何かがおそってきたりしたら、その命を守れるのは自分しかいない。その重圧と不安に押しつぶされそうになりながら、でもしっかりしなきゃと気持ちを奮い立たせるしかない。

「自分ではないだれかの命(人生)がゆだねられると、わたしのメンタルはこんなにも弱いのか」。

それもまた、育児をするようになってはじめて思い知った感情のひとつでもある。わたしの場合、ほんとうに暴風域の中心部にいたら、ふだんは図太いくせにこういうときには弱々メンタルすぎて、夫に帰ってきてもらっていたかもしれない。

それが無理なら親に電話するとか、とにかくひとりにならないことを選んだだろう。自分だけの手に、きっと抱えきれなかっただろうなと思う。

* * *

一晩たって、台風は去っていった。

ただでさえ真っ暗で不安な夜、赤ちゃんを抱えて、いつも以上に眠れない夜を過ごしたお母さんも多かったのではないだろうか。

いろいろな後片付けに追われながらかもしれないけれど、どうか、青空をみあげて、少しでも心癒されることをねがう。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。