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駅前ロータリーの窓際族

駅前のロータリーを、2階や3階などの高いところから見るのが好きだ。雑踏を見ているのが好きなのだ。

きっとそういうひとはめずらしくないのだろう。主要駅前にはたいていカフェやファストフード店なんかがあって、そこには雑踏を眺めてくださいとでも言わんばかりの、窓際カウンター席がある。

それが2階や3階なら完璧だ。あ、あそこいいなとピンときて、いざ足を運んで見れば、カウンター席でぼうっと外を眺める先客のひとりやふたり、いたりするものだ。

こんな書き出しで読みつづけてくれるあなたも、きっとそんな“窓際族”のひとりにちがいない。

* * *

ひとつひとつの要素はすっかり見慣れているはずの光景なのに、なぜわたしたちは「雑踏を(上から)眺める」ということにこれほど惹かれるのだろう。

これは感覚的な話だけれど、たぶんそこには、浮遊感というものがあるんじゃないかと思う。

現実から、一線をひいて自分を分離する浮遊感。分離感。

「鳥瞰図的に眺める」とも表現できるとおり、鳥になったような浮遊感とでもいおうか。

連なるタクシー、足早に行き交う人混み、信号待ちをしながらスマホに夢中なひとたち。呼び込みの声、ディスプレイ広告の音、信号機ののんきなメロディ、車のクラクション。会話や通話をしながら歩くひとびと。すべてが入り混じった、がやがやとした喧騒。

いつもは地上で、自分もその渦中にいる。その喧騒を構成する一員だ。

だからこそ、空間的にスパッと切り離され、かつ高さも数段階あがったその異空間でながめる「雑踏」は、どこか不思議で、見慣れているはずなのにかぎりなく新鮮で、なんだかとても惹かれてしまう。

もしかしたら、その雑踏のなかに「いつもの自分」を眺めているのかもしれない。

* * *

主要駅前の窓辺で、冷たいアイスティーを飲みながら、ロータリーを見おろしている。

30度を超える気温のなか、駅前を行き交うひとびと。信号待ちをしながら、暑そうに扇子で顔をあおぐおじさん。わずかな日陰をさがして佇む女性。

主要駅だからだろう、タクシー乗り場にはひっきりなしに人がやってきて、時折かなりの長蛇の列となっている。一方で負けじと列をなすタクシー。次から次へと流れるように、左からやってきては、お客さんをのせて、右側へさってゆく。

見ていると、個人タクシーやいろいろな会社のタクシーがいて、車体や車種もさまざま。お客側もタクシーを選べないし、タクシーもお客さんを選ぶことなく、それぞれ並んでいるとおりに、必然的にパートナーとなり出発してゆく。

なんかわたし、この感覚を知っている。

これはそう……、遊園地のアトラクションで乗り込む、のりものみたいだ。ベルトコンベアにのって、自分が次に乗ることになるのりものが左手から流れてくる。え、黄色かぁ……。ほんとうはあの、赤くてかっこいいやつがよかったのに。ちえっ、さいあく。

こども時代、今となってはとるにたらないようなことが、とてつもなく重要事項のように感じていたことを思い出す。

偶然なのか必然なのか、くじ引きみたいにめぐりあったパートナーを乗せて、タクシーは次々と出発してゆく。

「どちらまで?」

ちょっとぶっきらぼうな運転手さんの、そんな言葉を頭のなかで妄想する。

それぞれの車内で、会話が盛り上がったり、逆にまったく盛り上がらなかったりしながら、バラバラの方向へタクシーは走ってゆく。

そうしてたどりついた先で、こんどはそこを起点に、新しいストーリーがつづいてゆくのだ。

* * *

駅前のロータリーを眺めている。

無限に行き交う人の群れをみていると、自分は絶対に、すべてのストーリーを知り得ることはないのだなぁ、と思う。

自分や自分の家族や、友人、知人。そこまで広げても、まだまだ。

どう考えたって、一生知らずに、想像すらもせずに終えることになる「だれかのストーリー」のほうが、多いのだ。

あのひとも、あのひとも、あのひとも。

みな、自分を主役としたストーリーを生きている。

行き交うひとびとの顔をぶしつけにぼうっと眺めながら、そんなことを考えていた。


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