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悪意のないことばが人を刺す

そこに悪意がないことはわかっているのに、受けとるともやもやして、つらくなってしまうことば、というのがある。

子育てにおいてもそういうことばは多々あって、気をつけているつもりだけれど、きっと自分も気づかぬうちに発してしまっているのだろう。

ちょっぴり消化不良をおこしているので、きょうは自分のなかにあるドロドロと向き合って、棚卸しをしたい。

* * *

以前、子どもが入院して、退院したタイミングで知り合いから手紙とプチギフトをいただいた。

それ自体はとても心温まることで、贈り主の気持ちや、心づかいを、ほんとうにありがたいなあと感じ入った。だからそのときはもやもやを抱えても、すぐには書かなかったし、今こうやって書くのもちょっとためらう。

けれど、それから数ヵ月を経た今でも、たまにふと、ああこういうフレーズには気をつけなくてはいけないなあ、と自戒をこめて思い出してしまうのだ。ああわたし、消化できていないなあ。そう思い、やはり書いて気持ちを整理することにした。

いただいた手紙には、娘やわたしを気づかってくれるあたたかいメッセージがならんでいた。そのなかに、こんなような一文があったのだ。

“友達の子も同じ病気になって入院したけど、いまはとっても元気だよ!”

わかる。だからきっとだいじょうぶ、心配ないよと、励ますつもりでこの一文を追加してくれた気持ちが、わかる。そこにあるのは善意だ。悪意のかけらなんてない。でもそれがわかるからこそ、ことばを受けとったわたしは、もやもやしてしまう。

ひとことでいえば、「ああ、どうかわかったようなことを言わないで」という気持ちが顔をだすのだ。

冷たい。善意から発せられたことばに対して、そんな感情をいだく自分をいやだと思う。でも、正直になればそう思ってしまう。なぜなら。

第一に、「わたしの心配はいまそこじゃない」のだ。入院することになった病気自体は小さい子によくある、決してめずらしくはない病気。重症化するケースもあるが、わが子の場合は入院治療のかいあって、幸いにも後遺症なく、順調に退院することができた。

だからその病気がめずらしいものではないことも、後遺症さえなければその後は元気に過ごせるということも、入院中に身につけた知識で、それはもうよくわかっているのだ。

むしろその当時心配していたことは、入院中に心エコーをしたことで新たに見つかった心臓の疾患についてと、それによって手術が必要になるかもしれないということについてだった。

だから「いや、そこはもう乗り越えているんだよ。もう次に、もっとおおきな心配事を抱えているんだよ」。そんな勝手なもやもやが、胸にふくらんでしまう。

第二に、これが“友達の子”であることが気持ちを重くさせる。“うちの子”であれば、ああこの方も、この病気について勉強したのだろうな、だからどういう病気かも、その後の治療や後遺症の問題についてもある程度知識があるのだな、とわかる。でも“友達の子”はそうとは限らない。“うちの子”であれば、その方とより深い話もできるよね、と思うのだが、そうではないのだ。

だから“友達の子が同じ病気にかかって、いま元気”という情報は、わたしにとって何も意味をもたない。「だからどうした」になってしまう。

むしろその一文を付け足したことが、“この病気って大変そうだけど、めずらしそうだという印象があるんだけど、そんなことないみたいだよ”という、もうとっくに知っているところを後押しされている気がしてしまって、つらい。わかったようなことを言わないで、そう思ってしまう。心が狭い。

第三に、これがもし、わが子に後遺症が残ってしまっているケースだったら、と想像すると、それはとてもつらいだろう、と思うのだ。

先に述べたように、この病気は「後遺症さえなければその後は元気に過ごせる」とされている。逆にいうと、後遺症が残っているケースの場合は、ずうっと一生、薬を飲み続けて生活していかなければならないし、それによって生活上、気をつけなければいけない点がある。

もしわが子がこの、後遺症ありのケースだったとしたら。“同じ病気にかかって入院したけど、いまとっても元気だよ!”は、胸に突きささるだろう。ああ、これは後遺症なしのパターンなんだろうな。こちらはこの先一生、薬を飲み続け、制約のある生活をすることになったのだけれど。

悪気はないとわかっていても、退院後のこころが疲れているとき、どうしても思ってしまうと思う。

もちろん、これらの気持ちから知人を嫌いになったりはしない。責める気も、まったくない。事情を逐一話していれば、彼女がかけることばはガラリと変わるだろう。相手のことを思って手紙やギフトを贈ってくださるような、素敵なひとなのだから。

情報がはいれば、変わる。けれどひとの世は、必ずいつも、自分が最新情報を手にしているとはかぎらないものだ。だからこそ、想像力で補うことを忘れずにいたい。

当時は手紙を一読して、読み返すのもつらくなってすぐに閉じた。

誰を責めるわけでもなく、ただただ、行き場のないもやもやが空気中をただよう。それを打ち消すようにふう、と息をはいて、自分も気をつけよう、と思うばかりだ。

* * *

もうひとつだけ、短いエピソードを。

これは娘が歩けるようになってしばらくして、互いに子連れで別の友人に会ったときの話。

久々に会って、歩く娘を見ながら、「発達が遅めだからね、ようやく最近になって歩き出したんだ」と話すと、彼女はこう言った。

「そーう?全然、普通じゃない? みんなそんなもんだよ」

これもまた、励ましからくる言葉だろう。わかるのだ。

けれど思ってしまう。いやいや、事実なのだよ。病院にも通って、客観的に経過観察を続けながら、もう親も認めている事実なのだよと。だから正直な気持ちを言えば「あ、そうなんだね」とただ、受けとめてほしかった。

結局その後、彼女には娘に難病疑いがあることや、手術を控えていること、発達についても病院で経過観察をつづけていることなどを話し、事情を理解してくれておたがいにすっきりとした。このときは直接会っていて、たがいに時間があったからそれができた。

でもいつも、こうしてじっくりと時間がとれるケースばかりではないし、腹をわって話せる関係性ばかりでもない。たとえば児童センターでその日その場で会っただけ、という関係性だったなら、きっと事情を理解しあう、というところまではいかず、ちょっぴり心に傷をおったまま、飲み込んでただ帰路につく、ということをしていただろう。

* * *

さあ、ひとさまのことばについてここまでなんだかんだと言っておいて、我が身をふりかえればどうなのか。

実はわたしにも、ぜったいに言うべきではなかったのに、悪意なく無邪気に言ってしまった、最低なひとことがある。

当時わたしは気ままな独身で、なあんもわかっちゃいなかった。

そのときわたしは、若くして結婚した友人夫婦にひさびさに再会し、別の友人のところに子どもが生まれたねえ、という話をしていた。その流れで、エスカレーターに乗りながら、奥さんである女友達のほうに言ったのだ。

「◯◯ちゃんたちのところは、お子さんは? いまは仕事が忙しいから、もう少し先って感じ?」

最低だった。大ばかやろうだ。

今考えれば、ありえない。余計なお世話のクソババアだ。何も知らないくせにふざけんな、とはりたおしてやりたい。

むしろ先に述べているエピソードがどちらも、知人や友人の善意からくるものであったのに対し、わたしのは単なる興味から生まれた雑談である分、最低具合がきわだつ。

そのときは「うん……」と苦笑しながらことばを濁した彼女。しばらくしてから勇気を持って、わたしの目を見て言った。「あのね、いろいろあるんだよ。そういうのは、わたしも一回だめになっちゃったりとか、いろいろ」。しっかりと覚えていないのだけれど、たぶんそういうようなことを。

お気楽独身女の当時のわたしは、その意味の半分もわかっちゃいなかった。こいつ最低だ、と心の中で受け流してもいいところ、せっかく彼女は勇気を出して、伝えようとしてくれていたというのに。

その後わたしも、結婚をした。そして妊娠して、流産しかけていると言われて、必死に命を守ろうとひたすら寝たきりでいた経験をして、思った。

あのとき彼女は、笑顔のしたで、どれだけ傷ついたのだろう。わたしは彼女の心を、ナイフでずぶりと、突き刺してしまったのだと。

* * *

子育てをするなかで、悪意のないことばにもやもやしたり、つらくなったりするたびに、この当時の自分のことを思い出す。

そして思う。この場合はたまたま、その後の自分の経験をとおして気持ちに気づくことができたけれど、それ以外にもたくさん、自分が「まだ気づけていない」ことがあるのだろうと。自分も数々の悪意なきことばで、いくにんもの人を刺してきたのだろうなと。

ああ、あのとき傷つけた分が、それ以外でも傷つけてきた分が、めぐりめぐってこうやって自分にももどってきているのか。そう思うことで、相手への怒りは生まれない。自分もそうだった。この相手は、かつての自分そのものだ。自分も、これからも気をつけよう。そこへ落ち着く。

想像力を、もっともっと持ちたい。

自分が安静妊婦になってはじめて見えた世界や、親になって初めて見えた世界。子の発達に問題があって、こども病院通いを繰り返すなかで、初めて見えてきた世界。

同様に、さまざまな持病や障害を抱えるひとから見える世界や、その家族から見える世界、というのがある。なにも病気にかぎったことではない。家庭環境や、国籍、価値観、抱えている状況はほんとうにバラバラ、なのだ。

たいていのことは、「そんなこと、あなたに言われなくてもわかっているよ」なんだろうな、と思ってしまう。

すべての状況を完璧に理解することができないとしても。

だれかのことを理解できない、と思ったときや、なんでそうなるのだ、と思ったとき。「このひとはいま、わたしの想像力の及ばない世界にいるのかもしれない」というフレーズを、頭にセットしておきたいと思う。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。