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しんやの餃子世界紀行 Vol.27

「書くこと」

今日は久しぶりに1日オフの日だった。

家で猫と一緒にしこたま寝る。
起きたら仕事。

今日も日本ハムは逆転負け。
競馬もイマイチ。

嫌な1日だ。

21時のバスで岡山に戻らねばならない。

思えばこのブログも26回の投稿を数えた。

毎日投稿を謳って後悔した日もある。
書くことがなくならないように毎日色々な人と話してはネタを探す毎日。

「しんや人見知りだから」

というと

「いやよく言うわ」

ってみんなに言われながら生きてきた。

でも本当は人と話すのって本当に苦手。
いつも後悔の連続。

書くことも。

自分の主観で書いているから責任をすごく感じる。

まだゴーストライターだった頃は良かった。

人の名前で逃げることができたから。

でも今は違う。

由無し事の中に歪む感情が生まれないように、生まれていたらどうしようと言う不安と戦っている。

それでもこのキャラ設定を作ったのは自分だし、自分の評価は人が決めるものだから、しんやは人見知りではないのかもしれないし、そう言い聞かせている。

でも苦しいことばかりではない。

書く毎日から色々なインスピレーションを貰っている。

人を正しく見る目を養わせて貰っている。

良い機会だなって思う。

毎日飽きられないように試行錯誤できる。

どんな文章が誰に響くのだろうか。

こんな素敵な勉強なはい。

最初は思いつきで、とても軽いノリで始めたブログが日課になり、仕事になりつつある。

その機会に感謝の気持ちが強いから毎日書けるのだろう。

岡山では自分より若い子に出会う。

彼らはきっと、読むことから距離を置いた世代の人たちだ。

昔はテレビもなく、できたばかりのラジオは比較的早い段階で政治的利用を余儀なくされた。

元来人は、文字で娯楽を感じていた。

そこから絵が生まれ、音楽が生まれ、舞台芸術が生まれた。

どんな言語であれ、『言葉』をなんかしらで利用しながら人は娯楽を産んだだろうし、youtubeだってそういう先人の娯楽への探究心からしか産まれてこなかったはずだ。

現代において、文字はとりわけどんな娯楽よりもめんどくさい。

目で見て脳で理解することを求められる。

直感的な感情を揺さぶらない。

僕はそんな前時代の娯楽で勝負している。

今上げているnoteもそう。

Noteの登場でたくさんのライターが救われていると思う。
ただその認知は十分とはいえない。

書くことが救われても、読むことまで浸透しない。

このラグこそが人が文章から離れた理由。

僕はそう思っている。

書けるから人より優れていると、もう声は大にしていえない時代。

昔は書けることはハイプライオリティだった。

もうその時代に戻ることはないし、戻る必要もない。

書く側が読める文章を提供するように思慮を巡らせる、それだけ。

しんやの文章を面白いよと言ってくれる様々な人たち全てがバラバラの認識と見解を持って読んでくれれば良い。

切に願うこと。

僕は常に、読んでくれるあなたの顔を想像して書いている。

今、この堅苦しい独り言をあなたはどんな顔で読んでいるのだろう。

今日の文章はきっと真顔で読むに違いない。

人によってはしかめっ面で読んでいるかもしれないね。

ただそれが良い。

これから先、まだまだ出会う誰かのことを毎日書けることが幸せで、そこからしんやを知ってもらえることが幸せ。

岡山に向かうバスは今日も狭く、寝苦しい。

インスタで帰るよってストーリーを上げたらみんながお帰りって言ってくれる。

文章から繋がったこの脈がすごく大切。

みんな友達。

岡山第2章が明日から始まる。

アンディと歩む新しい餃子世界岡山の第2章。

どんな人に会えるか、しんやのインスタのフォロワーはどんな増えかたをするのか。

楽しみでしょうがない。

今日はそんなしんやの心の声の文。

ごめんなさい、書くネタがありませんでした。


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