コメディ礼賛 (7)剣道場で聴く落語
子供の頃から、いわゆる《喜劇》と共に、《お笑い》ファンでもありました。なかでも《漫才・コント》は、1960年代前半の「晴乃チック・タック」と後半の「コント55号」が好きで、自分もこの道に進もうかと思ったほどでした。
さて、その時代、《漫才》はテレビへの露出度が既に高かったのですが、《落語》はラジオで演じられることが多く、もちろん落語も好きではあったのですが、演者の顔はあまり知らないまま主に古典の演目とその落としどころを楽しんでいました。
18歳で上京してから7年間の東京生活の間、新宿の末廣亭と上野の鈴本に各1-2度ずつ行ったことはありますが、何せ貧乏学生の身であり、しかもテレビは持っていなかったので、落語はやはり、もっぱらラジオで楽しんでいました。
さて、これは二十歳前後の頃だったと思いますが、目白で下宿していた友人を訪ねた時のこと、電柱に「若手寄席(表題は違っていたかも)」と張り紙があり、「次の日曜の*時開演」てなことが書いてあります。
「……ああ、それか」と友人。
「この近くに柳家小さんの家があるんだよ。そこで時々、若手の練習会があるんだ」
入場料は無料だという。
そこで、彼女と二人、聴きに行くことにしました。
柳家小さん(五代目)は剣道家としても知られていました。段位は範士七段で、「(弟子に)稽古をつける」といえば、落語ではなく、剣道の《稽古》だったと言われているくらいです。
小さん師匠の自宅に行くと、特に誰にもとがめられることもなく、門を通って離れの剣道場に直行します。広さは12畳ほどでしたでしょうか。
電柱の《お触れ》は町内にしか貼っていないので、《客》は近所の愛好家15人ほどです。
板の間に坐って待つと、やがて前座か二つ目ぐらいの若者がやってきて演目を披露します。好みもあり、面白いと思う人も、そうでない人もいました。
「この人はすごい、いずれ出世した時のために名を憶えておこう」
と思っていたはずですが、今憶えている顔は限られます。
木戸銭無用ではありましたが、例えば二つ目昇格の際に作ったという名入りの手ぬぐいを買っていく人もいました。
おそらく、小さん師匠の《近所づきあい》の一環でもあり、若手の練習の場でもあったのでしょう。
会の《お触れ》が出るたびに友人に教えてもらっていたのですが、彼女がイマイチ乗り気でなかったこともあり、いつしか行かなくなってしまいました。
でも、駆け出しの若手とはいえ、ほんの1メートルほど前で演ずる落語家さんの噺を聴くことができたのは、時代にも、幸運にも恵まれていたのでしょう。
話は変わりますが、私がもっとも好きな落語家は、五代目春風亭柳昇です。とことんとぼけた《マクラ》を含め、その飄々とした味は、他の誰にも出せない《ワザ》でした。
戦争中、敵機の機銃掃射で手の指を数本失ったために古典落語ではなく、新作一本に絞って勝負したことなど、後から知ってなるほど、と感服したものです。
《結婚式》は実際に高座で聴いて、大笑いしました。
一方、古典落語では、昨年10月に亡くなった十代目柳家小三治が好きでした。この人も《マクラ》の名手です。
《浪曲》はかつて《演芸》の花形で、新宿末廣亭も明治期は浪曲席だった、という話を聞きました。
《落語》を楽しんだ、というのもいずれ《古老の繰り言》になってしまうのかな、と淋しい思いもしながら、この話を書き留めておくことにします。