高梨選手の《謝罪文》を読んで再び「必然性の無い《団体戦》はやめようよ」 (エッセイ)
半年前、東京オリンピックの時に「Wet blanket」と呼ばれるのを覚悟で、《本来は団体競技でなく、個人種目を束ねただけの団体種目》について、
「《オリンピック憲章》を遵守して、こんな種目はもう止めようよ」
という記事を書きました。
北京オリンピックでのスキージャンプ男女混合団体戦で、高梨沙羅選手が失格し、日本チームがメダルを逃した、という件に関して、
・高梨選手が謝罪文を公表し、
・国内外から励ましのコメントが寄せられている、
という報道をいくつも見ました。
高梨選手の謝罪文の(誤解にならない範囲で、この記事に関連する)一部を以下に引用します:
彼女の肩にどれほど重いものがのしかかっているのかは、想像するしかありません。
団体戦は《日本チーム》としてポイントを競うわけですから、いわゆる《日の丸を背負っている》責任は、個人戦よりはるかに重いのでしょう。
理由は何であれ構成メンバーのひとりの失格や失敗が、チームの成績という結果に《連帯責任》的に顕れるのは、団体戦における必然です。
彼女を励ましたり慰めたりする声をたくさん聞きます。
「彼女は悪くない」「自分を責めないで」
「他の日本人選手が頑張って4位に着けたのは誇らしい」
私もまったく同感です。
でも、《本来は個人競技》である種目を束ねて《国別対抗の団体競技》に仕立て上げている《本質》についての議論は、残念ながらほとんど聞かれなかった。
もちろん、競技団体側も、「束ねて」日本チームを作れば取れる可能性のあるメダルの数が増えるし、おそらくはオリンピックに向けての「強化費」が増える、といった《大人の事情》もあるのでしょう。
オリンピック競技をTVで見ながら、
「日本チーム頑張れ!」
と応援している人たちにとっては、いやな「Wet blanket野郎」ですよね。
私だって、アイスホッケーやカーリングのように《団体競技であることが本質である競技》では、ビールを手に、
「日本チーム頑張れ!」
と叫びます。
でも、もう一度、前記事の最後の部分を書きます:
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オリンピック憲章(最新の2019年版)の憲章6、「オリンピック競技大会(The Olympic Games)」には、
と明記されている。
サッカーやバレーボールのように、前者型(注:団体であることが必然の)団体種目を応援している時、我々の心の中の《ナショナリズム》は、かなり《自然に》発揚されていく。
《興業》にかかる費用は、税金とスポンサー企業からもたらされる。
競技が、ある程度、《国家主義》&《商業主義》と鼎立せざるをえない現実は、避けられないだろう。
しかし、《国家主義》と《商業主義》以外に《必然性》のない(=合理的に説明できない)《団体種目》をどんどん増やして、結果的にナショナリズムを《不必要に》煽るのはどうだろうか?
どこかで線を引くとしたら、この《2種類》の間ではないだろうか。
もちろん、オリンピック以外で《後者型団体種目》(注:高校対抗の柔道団体戦のように個人戦を束ねた団体戦)を否定するものではない。
私自身も、《母校ナショナリズム》や《地域ナショナリズム》をそこそこ持つ、フツーの人間である。
高校の応援団が声を涸らしている横で、Wet-blancketな発言はしないし、考えもしない。
でも、オリンピックのように大きな金が動き、影響力の大きな《場》だかこそ、《憲章》に記された《建前》をなし崩しに壊していくのはやめて欲しいな、と思うのであーる。
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