「花束を君に」と「真夏の通り雨」の完全なる相対性について
(と、頭よさげなタイトルつけましたが、マニアックなヲタ記事ですw)
2016年、宇多田ヒカルが完全復活→アルバム発表→さらに今年もまた新曲発表…とファンにとってはヨダレじゅるじゅるな展開になっておりますが、思い起こせば、この復活劇のスタートとなったのが、同時発表された2曲『花束を君に』と『真夏の通り雨』でした。
でも、なぜ2曲同時発表だったのか?
彼女の新曲に飢えていた私達にとっては1曲でも十分だったはずのに。
当初、「『真夏の通り雨』だけだとファンに心配されちゃうから、明るめの『花束を君に』も同時に出したのかな。」とか、「まぁタイアップの関係かな~」なんて安易に考えてしまったんだけど、ほぼ毎日聴きこんで、この2曲は切っても切れない、2つで1つの作品だったんだという考えに至りました。
ちょっと詳しく書きますね。
1.母音で対比される陰と陽
宇多田さんが歌詞を書くときに、母音から考えるというのは有名な話ですが(かのAutomaticの<7回目の~>は「あ・ああいえお~♪だな」って思ってから書いたとのこと)、この2曲も母音に注目すると、とても面白いことになっています。
『花束を君に』は、歌いだしだけみても
<ふだんから メイクしないきみが うすげしょうした あさ>
というように最後の母音はすべて「あ」の音。
その後も「あ」の母音が多用されます。ちなみに、他に「お」も多用されるけど、発音は「あ」に近い「お」でされています。
(韓国語を学んだことのある人には陽性母音といえばわかりやすいはず。)
一方、『真夏の通り雨』の歌いだしは
<ゆめのとゅうでめをさまし まぶたとじてももどれない
さっきまでせんめいだったせかい もうまぼろし>
というように全部「い」の音。「い」の他に、「う」「え」も多用されていて、「お」については、さきほどとは対照的に日本語の「お」に近い発音。
(こちらは韓国語でいうところの陰性母音。)
試しにこの2曲をくちずさんでみると、『花束~』は口を大きくあけて外に息をだすので、なんだか前向きになるし、『真夏の~』は空気が内にこもって息苦しくなってきて、辛い気持ちになってくる。
ピンクとブルー、横書きと縦書きという対比がついていたジャケット同様、母音の使い方という面でもしっかり陰と陽という対比がされているのです。
ちなみに、『真夏の~』の中でも2か所だけ「あ」が象徴的に使われるところがあるのですが、「あぁあ~」と慟哭のような声の出し方をしています。
2.歌詞からみえる内と外、光と闇
最初に『真夏の~』を聞いたとき、すごく美しい言葉を選んでるなぁと思いました。<揺れる若葉>とか<勝てぬ戦>とか<尚も深く>とかどこか詩的で、古めかしい表現を使ってるんです。一方、『花束~』はかなり分かりやすい言葉を使ってます。話し言葉に近いです。
そこで思いました。
『真夏の~』はあくまで自分の内面をなるべく言葉でうまく表現しようとした詩歌、『花束~』は自分以外の誰かにつたえるための手紙なんだな、と。
そう、母音の下りでも内と外というキーワードがでましたが、言葉使いからもその対比がみえてくるんです。
(のちにNHKのSONGSで彼女自身が「まぁ、手紙、ですよね」と言ったときは鳥肌が立ちました。)
そして、とても興味深いのが、『真夏の~』でこれだけ言葉に工夫して表現しておいて、『花束~』の中で<どんな言葉並べても 真実にはならないから>と自分の行為をさらっと否定してしまうところ。
逆に『花束~』では、よし<花束を贈ろう>と言ってるのに『真夏の~』では<教えてよ 正しいサヨナラの仕方を>ともがいている。
当初【もがいていたけれど、前向きになれたよ】という時系列にも思えたのだけど、段々そうじゃないことに気づきました。
そうか、彼女は行ったり来たりしているんだ。
陰と陽を、内と外を、朝が来てまた夜が来るように、繰り返し行き来しながら、母親の死を徐々に受け入れているんだ、と。
(ちなみに、『花束~』の歌いだしは朝、『真夏の~』歌いだしは夢の途中=夜。そして前者は朝ドラ主題歌、後者は夜のニュースのエンディング曲でした。)
だから、どちらか一方だけではなく、両面あって、はじめて彼女のリアルだったんじゃないのかなと。どちらかが先でもなく、同時に存在しないといけなかったんじゃないかなと。
3.音からみえる生と死とループ
ヘッドフォンで聴いていると気づくのが、『花束~』に彼女の呼吸音が挿入されてること、一方、『真夏の~』の後半で鼓動のように聞こえる音が刻まれていること。
考えてみれば、人は呼吸と鼓動で、生きている。二つそろって生の象徴だ。
やっぱりこの2曲は切り離せないんだ。2つで生の側から、死と向き合っている。そう思えてきます。
2曲とも最後はフレーズのループで終わっていくのも、この2曲をつないで、無限のループのメビウスの輪を作っているような気がしてくる。(ここまでくるともう妄想力激しすぎw)
以上、わたしには音楽の専門性はないので、言葉よりの分析のみですが…、この2曲を聴くたびに、美しい完全な相対性に鳥肌が立ってしまうのです。
身近な人の死は簡単に受け入れられるものではない。
哀しみの闇に引き戻され、それでも光をみて前に進む、でもまた引きもどされる、人間の強さと弱さ。
他者である母、でもその内から生まれてきた自分。だから外であって内である母。
そもそも死は生があって成り立つ。光は闇があって成り立つ。
あぁ、やっぱり、この2曲は、2つで1つの作品なんだと思えてくるのです。
長文を読んでいただき、ありがとうございます。
だいぶ妄想がひどいですが、ファンはたった2曲でここまで盛り上がれるということで…w。
※おまけ
もちろん母の死がテーマであるものの、「1つの見方しかできない歌は作らない」と本人が語るように、2曲の歌詞とも恋愛の心情を歌ったものとしても成立しています。すべてリセットして見方を変えると違う歌になる。なに、このだまし絵みたいな構造!?やっぱり天才ですね~。
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