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うつ病について(5)

記憶の話を少し書いたけれど、やはり生育環境は無視できないと思う。どんな環境で育ったのかというのは、「三つ子の魂、百まで」の通り、影響がなくなることはない。カウンセリングの話も書いたけれど、カウンセリングの中で見えてくるもののほとんどが過去の自分、幼い頃の自分の記憶に関連していた。考えてみれば、過去の自分の体験に紐づかない感覚というものはナカナカないのだから、過去にどのような経験をしていたのか、もっというと「過去の自分を自分がどう捉えているのか」「過去の自分をどう説明しているのか」が如実に見えてくる。カウンセリングの帰りに「あぁ、俺こんなふうに思ってたんだなぁ・・・」と目線が遠くなることが多い。

生育歴に一番関係が深いのは何にしろ、親の存在だろう。いわゆる「育ての親」という親。私は両親がいたし、まだ死んでいない。大きな貧乏をしているわけでもないし、何か大きな苦労をしたわけでもない。目立って珍しい体験をしていたわけでもないと思っていたし、親がいなかったり、離婚していたりで家庭内が荒れていたとか、両親の喧嘩が耐えなかったというわけでもない。それでも、私は両親とは疎遠なのだ。仲が良いとか悪いとか、そういう話ではなく、今でこそ言葉で言えば、

「近寄りたくない」

という感覚。実家は今自分が住んでいるところから、電車でも2時間かからないし、車で高速道路をとばせば1時間程度で付く場所にある。中年男性の親なので、年齢は後期高齢者になり、色々と病気があったりして健康には気遣う部分があるにしろ、五体満足で生活に誰かの助けがいるという状態ではない。認知症も今のところは疑われていない。
だからこそ、ということも在るだろうけれど、私は彼らに会いたいと思わない。理由を一言で言えば、「記憶」なのだ。

両親から身体に暴力があったわけではないが、整理してゆくと自分の中でどうしても看過できない感情があるのだとわかり始めてきたことが大きい。「昔、あのとき、私はこんな気持だったんだ」という、当時、自分が感じたことをその時点で消化できなかったことによる巨大なストレスと、そうした生活で作られる性格、生き方、そういうものを今になって思い知ると、もう実家に足が向くことがない。体が動かない。

自分の理解や記憶が100%、世間的にみて正しいとか間違っているとかそういうことを言うつもりはないが、ともかく自分の中で一番重要なのは、

私は何を感じていたのか

という自分の記憶に在る感覚だ。あまりカウンセリングでは心理学や医療で使われる専門用語で体験を説明するということはしない(自分の言葉で説明し理解する)が、よく言われる「抑圧」という作用があったのだろうという話をした。

私が子供の頃、ずっと感じていた感覚は

  • 優先順位が低い存在

  • 疎ましい存在

  • 面倒くさい存在

  • 望ましくない

といったもの。三度の飯に事欠いたこともないし、貧乏だったわけでもない。それでも、両親、特に父親からは自分がこういう存在なのだな、と思わせるような生育環境だった。字面で言えばよくある話だろうと思うし、私の性格的な「弱さ」なども在るだろう「現在の自分を父親の存在に責任転嫁している」、という言葉も浮かんでくる。

しかし、これは責任や原因を探るという類の話ではなく、

そのとき、自分は何を感じていたのか

ということ。「その時」というぐらいなので、「過去」の話で、それってどうやって知ることが出来るんだ・・・という「事実なのか?」という疑問があるが、必要なのは、過去に起こった事実を正確に再生して確認することではなく

その過去を今の自分が、どのように説明するのか

という「現在からの視点」にフォーカスすることが必要だった。過去を現在に引き戻して自己理解を試みる。行動原理が経験にあるとするなら、今感じるストレスを引き起こした反応、「なんでその反応をしたのか」を知るために過去がどのように影響しているかは無駄ではないと思う。

その時に必ずと言っていいほど出てきたのは、両親と自分の関係性だった。私は父親や母親との精神的距離感がわからないまま大人になっていったし、私が彼らから受け取る感情の一部分であり強烈な部分は「無関心」という言葉で説明されてしまった。(「されてしまった」というのは、カウンセリングで「その時、何を思い出したか・感じたか」という問いに答えたときに言葉にするとこうなったのだった)

両親が悪い、両親の育て方が悪いのだ、と言う気にまではならない。ただ、今まで「自分が彼らに持っている感情」を自分で感じることができなかった、という非常に初歩的な部分がすっかり抜けていたのが私のストレスの原因であることがわかってきた。
今の私は、両親のことを思うとこうした記憶が先立ってしまって自分の中で悪い感覚しか湧き上がらない。彼らの良し悪しではなく、私が言葉にならない原始的な感覚のまま蓄積してきたいわゆる「トラウマ」のような状態を放置したことが一番の原因で、いまはそれを紐解いて理解を勧めている過程なのだ。実際、数年まえ実家で父親とあった後、精神的に不安定な状態になったことを思い出す。こういう理解を進めれば進めるほど、悪い影響も出てきてしまうけれど、すべてが良い方向に行くなんてことは無いし、全ては私の記憶と解釈の中で起きていることなので、仕方がない。

私はうつ病は記憶と密接な病だと思っている。セロトニンの話や腸内細菌の話、遺伝的な話など、いわゆる「ハード面」の話はたくさん聞くが、自分がどのようなハードを持って生まれようが、その後に積み重なるデータとそのデータを組み合わせて作る思考モデルの影響は避けて通れないと思う。ハード面がもたらすのは極端な話「緩和」であって、緩和は時間が立つ事に強烈にしてゆくしかなくなる。
ただ、記憶に手を付けるのも、とても危険で、うつ病そのものが、社会生活がその人物の記憶と思考に手を付けてしまった結果、摩耗し消耗した精神世界がもたらした病だと思っているので、人為的にそれに手を付けるのは軽々似できることではない。そもそも、ハード面よりも比べ物にならないくらい個体差が大きいのが記憶なので、一般解を想定することができない。

それでも、記憶を無視してうつ病の軽減は得られないと感じている。恐らく、記憶の話に行く前に、一生を終えるのだろうとすら思う。ただ、カウンセラーとも話していたが、

「それならそれで、死ねるのだから良いのだ」
「気が付かなければ、辛いと言いつつそれでも一生を終えられるのだから良いのだ」

という理解も成り立つなぁ、と、いつも感じている。

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