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A=B

先崎彰容さんの「国家の尊厳」を読んだ。

先崎さんはYouTubeの動画で知ったのが最初で、NewsPicsの「WEEKLY OCHIAI」やフジの「プライムニュース」に度々出演している。彼は言葉のリズムが良い。日大危機管理学部の教授でありながら思想史家という肩書を持つ。

先崎さんの言葉に共感するのは、現代をスパッと総括するからである。現状認識を言葉にしてくれるので、そこを拠り所に自分なりの世相感を整理することができる。ひとつの基準になってくれるのはありがたい。

コロナ禍は無

私はここのところ、コロナ禍前、コロナ禍、コロナ禍後での常識の変化を感じている。それは簡単にいえば、それぞれの期間における常識が通用しなくなっているということになる。一言で結論を云えば「コロナ禍は無」であって、コロナ禍後の落ち着く先が見通せていない。

なぜ「コロナ禍は無」なのかを整理してみると、これは自分自身の体験だが、印象的な思い出が何も残っていないのである。私は2019年前後に体調を崩し、活動できる時間が極端に少ない日々を過ごした。コロナ禍は2020年から始まっており、私の体調が復調するのは2022年で、部屋の中で同じ景色ばかり見て過ごした。

コロナ禍の最中、緊急事態宣言が発出されてからは多くの人がそうした経験をしただろうことは想像できる。私は体調を崩していたからまだ良いが、元気な人が外に出られない日々を過ごしたというのは、本当に苦しかっただろうと想像できる。本当に苦しかっただろう。

はてさて、2-3年は部屋での生活を中心に過ごした。体調が悪いとはいえ、パソコンを使った仕事は多少なりしていた。確かに1000日程度は過ごしているが、全く印象に残っていない。今となってはオリンピックをしたのかどうか?ということすら怪しい。実際には開催されていることは頭では分かっている。ただ、なにか体に馴染まないのだ。

最近では、過去の記憶と昨日見た夢というのは、それがどっちかどっちでも良いだろう?ぐらいに思うようになった。頭で考えたことと腑に落ちることとは、えらくギャップがあって、頭で考えて分かった気になることに警戒感を持つようになった。

反面、五感で体感したことや腑に落ちることに対する信用度が増した。腑に落ちるというのはどういうことかといえば、ほぼ無意識で行動できるというか、思想として支持できるというか、ストレスを感じないという状況に近い。「そういうもんだろう」で片付けられる感覚だ。

A=Bが腑に落ちた瞬間

世の中には、頭では分かっていても腑に落ちてなかったことがたくさんある。

わかりやすい例が「A=B」。数学で使われる関係。これがまぁ中学生のときには混乱した訳だ。

「A」は「A」だろうし、「B」は「B」なのに、なんで「A=B」なのか理屈がよくわからなかった。

なんかまぁ、そういうことで話が進んでるからそういうもんかぐらいで対応していたと思うが、つい最近になってようやく腑に落ちた解釈は、

数学はそういう決まりでやっている。

ということだった。これが腑に落ちるまでに十数年かかっているのだから、厄介である。当時、教師も両親も学友もそういうことは教えてくれなかった。「A=B」は「A=B」と信じて疑わなかった人たちが多かった。

そりゃそうなんだ。そう教わるから。そんなところに疑問を持っても仕方がないし、それは腑に落ちた今となっては分かる。ただ、むかしの自分はそこ一点をとっても辛かったろうなと思う。疑問を持っても腑に落ちず、丸め込まれるという体験をした人は多いだろうが、モヤモヤが残る。

これは頭で理解してもダメなのだ。ほんと、腑に落ちないとスムーズに進まない。そうしたこともあって、頭で考えることに距離を置き、身体が納得する方向に重きを置くようになった。

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