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私にとって、学ぶ活力のための目的とは

知っている

わかっている

この2つには大きな壁がある。

この壁というのは、別になにか大きな障害があるわけではない。
どちらかというと、隣に並んでいるけれども、遠い距離にあるような感覚だ。
例えるなら、同じ北海道でくくってしまうと近く感じるが、実際は、函館と稚内はかなり距離がある存在というのと、似ている気がする。

さて、なぜそのように感じるのか。
それは、その情報に触れたことがあれば、「知っている」状態だと認識する人もいれば、聞いたことはあるけど、自分では誰かに説明できるほどではないから、「知らない」といういう人もいる。

私からしたら、実際は同程度の知識の2名のようにも感じるが、この日本語に具体的な定義がなされていなければ、このようなことが起きるだろう。

後者の人が、「知っている」と感じるには、「わかっている」状態になって、初めてそう感じるだろう。

さて、この違いというのは、再現性があるかどうかだろう。

知識というのは、持っているだけではなにもなさない。その情報を再現、つまり誰かに正しく伝聞できる状態でなければ、活用したとは言い難い。

もちろん、すべての知識を活用する機会というのはなかなかない。
しかし、誰かに聞かれた時に、答えられる程度には、理解しておきたいところではある。

そうすると、理解したという度合いを図るのは、情報の、知識の種類によってかなり異なるのではないだろうか。

例えば、野球におけるバットの振り方。
バットを振るという行為は、たぶん見様見真似でなんとなくできる。

しかし、ボールにバットを当てる方法や遠くに飛ばすための方法は、きっとある。コツというか技術というか。

それを言葉で誰かに説明できる状態(わかっている)は、活用しているとは言えるのだろうか。
これは、「できる」状態が再現できたと言えるのでは、と思う。

もちろん、コーチ業として、自分ができるかと人に伝えられるかは別、という考えもできる。

しかし、再現性がそこにあるか、というのはひとつの指標かもしれない。

だとすると、「知っている」と「わかっている」この2つの違いや壁に大きさ、距離を考えるよりも、その情報を知識として自分に蓄積する際に、どのレベルまで求めるかということになる。

口で説明できるレベルなのか、図式を用いてわかりやすく説明できる状態か。
それとも誰かに見せるためなのか。

この目的が必要であり、このゴールが身体化と言える気がする。
この身体化のレベルは人によって異なる。

これが、知的労働の曖昧な基準の正体であったりするのだろうか。


私にとっては、ある程度は、広く浅くの知識でも別に問題ないのかもしれない。
それが、新しい知識を得る上で、生き、そして次の知識を得るのに、十分な理解を得るための阻害とならない。それくらいがきっとちょうどいい。

だから、興味を持ったものには、とことん注意を向けるし、そうでないものに関しては、あまり調べない。

自分の求める身体化が、学ぶ活力と目的に直結しているのだ。


だとすると、noteで発信するのはなんでだろう。
だれかと意見の交換をしたいのかもしれない。

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