そもそも他人は理解できない?
タイトルの通り、ここ最近他人の事は理解できそうにないと思うに至った。でもそれは単なる諦めや他人との間に壁を置き隔絶し孤立したいということではないし、あくまでも相互理解に努めることは忘れず大切にしていたいのだけれど、やりすぎてもよくないなぁと思っている。今回はそのことについて書いてみようと思う。
先ず人を理解するということは、相手の考えや思いに傾聴しつつ、自分の経験とそこで生じた感情に照らし合わせてようやく『相手もきっとこう思うはずだ』と“自分が思う”ということでしかないと考えている。まるっと相手の内面に飛び込んでみないことには、本当に同じなのかの確かめようがないし、相当な覚悟と経験がなければそれはとても困難な事だ。特に、文化や宗教の違いといったことにまで至ると、研究心をもって相当時間を掛けでもしない限り無理だろう。そういう点で、理解するということは本当に難しいものだけれど、とはいえ通じ合うことの心地よさや、言っていることが腑に落ちたなどの“自分が得た感触”があれば、それを理解と言っても差支えないとは思う。
もう一つ、人は常に変化していくものだから、現在生きているその人のすべてを理解することはありえないと考えている。古いアルバムを開くとそこにはちいさかった頃の自分が写っている。容姿は今と全く同じではなく常に変化して今に至る。また、細胞も生まれては消えていくので、今日の自分の体ですら昨日と全く同じということはない。昔食べられなかったものがおいしく感じたりと味覚だって変わることもある。だから現時点の一瞬を切り出して『この人はこういう人だ』と解釈し決めつけてしまうことは、人を不変なものと前提していることになると思う。生きた人間は本のように固定された情報ではなく、常に変化する“なまもの”だと捉えることの方が自然ではないだろうか。今や動画や文字情報などがインターネットにアップされているし、過去の偉人の伝記や著書などもあるので、その時点のその人の考えや思いを推し量ることは可能だろう。だけれども思考なども、例えば会話を積み重ねるうちに徐々に変化するものだし、何かインパクトのある出来事でまったく過去から信じてきたものが覆されるということもあるだろう。唯一変わらないこととすれば、これもまた借り物ではあるけれども、名前、生年月日、血液型、国籍など自分に与えられた情報だろうか。しかしそれらはただの情報に過ぎないともいえる。
上記の点から、概ね自分の感触としてなら理解したと言うことは可能だし、ある一時点の情報として解釈したと言うことも可能だといえるだろうけれど、だとすれば“ほんとうに理解する”ということへの至らなさを残していると思うし、更に言うならその至らなさを残しておくべきだろうと思っている。理解し合えるということは基本的にはとても善いこととは思うのだけれど、『完全に理解しあえたぞ!』というのはワタシとその他人を自己同一視しすぎてしまう危うさがあるから、いささか気味が悪いことでもあるのだ。きっとあの人はこう思っているに違いないと思いすぎることは、自他ともに苦しい結果になるといってもいいと思う。自己同一視しすぎるあまり依存関係にも陥りかねないし、理解できない点が生じたときにかなり不安に陥ることになるから。
なお、もし完全に理解するということが出来るとすれば、それは仏陀による悟りの世界観のような、この世ぜんたいの普遍性というところまで落とし込まなければまず無理だと思う。そしてそれは、一般人の私には到底できない。だけれどもある程度までは可能だとも思うし、これについてはやはり自分を深めたり相手と会話を重ねたりするなどして精進したいなぁと思う。
何はともあれ、先ずは適度に自分という個を律する事と、相手を想い理解に努めるという姿勢を忘れずにいつつ、相手の事は完全に理解なんてできないし、だからこそ自分のことも完全には理解してもらえなくて大丈夫だと思えることの方が健全なのではないかと思っている。また、完全に理解し合えないという前提に立つことで、逆に理解しようという態度を継続することが可能になるのではないだろうか。ほどほどに理解し合うといことは、言い換えれば、まずは認知し合うことで十分達成できるだろう。誰かに名前を憶えてもらっていることはそれだけで嬉しいことでもあるから。そして誰かとべったりと理解し合うということより、なんだかリズムが合うということの方が、長く程よい人間関係の構築になるだろうと思うのであった。
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