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聖書のお話「あなたを生かす神さま」2022年3月

はじめに

「聖書の神さまってどんな神さまなの?」と聞かれたら
「あなたを生かす、いのちの神さま」とこたえます。
それってどういうこと?
あなたに生きてほしいってことです。
よかったら聞いてみてください。

音声はこちら

https://www.fujibapchurch.com/app/download/12422719457/2022.3.6.mp3?t=1662346227

聖書本文 マルコによる福音書 12章18節~27節

 18:復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
 19:「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
 20:ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
 21:次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
 22:こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
 23:復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
 24:イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
 25:死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
 26:死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
 27:神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

『聖書』(新共同訳)より

お話

 キリスト教は「復活」の宗教であると言われます。「復活」の宗教。それは、十字架に架けられて殺されたイエス・キリストが、神によって3日目に復活させられた、その出来事に基づいています。「神は暗闇から光を、死から命を生み出すことができる。神は、イエス・キリストは、死んだものの手を取って再び起こし、新しい命に生きるようにしてくださる」キリストの復活を、キリスト教は、私たち・教会は、そのような信仰的事実として信じ、のべ伝えているわけです。
 今日の聖書箇所には「復活はないと言っているサドカイ派」という人々が登場します。サドカイ派というのは、ユダヤ人・ユダヤ教のあるグループでした。聖書にはもう一つ、ファイサイ派というユダヤ人・ユダヤ教のグループが登場しますが、このファリサイ派とサドカイ派とは対立するグループでした。後にファリサイ派が正統派とされるようになりサドカイ派は徐々に無くなっていってしまったと言われています。そのサドカイ派の人々は「復活はない」と言っていた。念のため確認をしておきたいのですが、今日のこの物語の時点では、イエス・キリストはまだ十字架に架けられて殺されてもおらず、当然復活という出来事も起こっていません。その時点で、彼らユダヤ人・ユダヤ教のなかでは「復活」ということが当たり前の話題であったということです。ユダヤ教の教え、思想の中に「復活」ということがあった。私たちが現代のキリスト教の視点でこの「復活」を読んでしまうと、すぐにイエス・キリストの復活に結び付いてしまうのですが、一度そのことを忘れて今日の話を読んでみなければ、見えなくなってしまうことがあるのではないか。そのように思っています。

 「復活」とは私たちの命が終わり死んだあとの話です。今日の話でも、サドカイ派の人々は、ある人々の死後に起こることを例に挙げながら話をしています。ユダヤ人・ユダヤ教の人々は、死後のことをどのように考えていたのでしょうか。死について、命についてどのように捉えるのか、その考え方のことを「死生観」という言葉で表したりします。死生観…死ぬこと、生きること、生きていること、生きた後に死ぬこと、死んだ後のことをどのように捉えるか。死ということがらをどのように捉えるのか、それによって、今の命をどう生きるのか、それもまた変わってきます。「死生観」は、国や地域、様々な歴史や文化を共有する人々によって、異なる形で存在しています。宗教はそこに大きな影響を与えています。なぜなら、「死」また「死後」というものは、私たちには認識することができない「わからない」ことがらであるため、私たち人類はその説明を、宗教というものに求めてきたからです。また逆の視点で考えると、私たち人類の歴史や経験が、ある人々に共通・共有の「死生観」を形作らせ、それが歴史のなかで文化あるいは宗教と呼ばれるものとなっていった、それらに影響を与えていった、とも考えることができるでしょう。具体的に言えば、例えば各種宗教において執り行われる「葬儀」の形は、時代の変化とともに変わってきたわけです。そこには私たちの「死生観」の変化が具体的に現れてきます。その変化が、常に人類にとってよいものであるとは言えないかもしれません。皆さんもご存じの通り、この新型感染症の影響によって、葬儀の形が変わってしまいました。人を招いて、ご遺体を前に、ともに別れを偲ぶ…そのような形を採ることができなくなりました。望んで、納得して変わったわけではなく、やむを得ず、変えるしかなかった…そうして、「死」と向き合う具体的な形が変わってしまったことによって、私たちは知らず知らずのうちに「死生観」に影響を受けていると思います。災害や事故によって…そもそもすべて「死」というものは、私たちにとっては予測のできない事故といってよいかもしれません。私たちの「死生観」は、文化や宗教だけではなく、私たちの歴史や経験によっても変化をしていく…ですから、国や地域だけではなく、生きていた時代、世代によってもそれは異なっていくんです。この感染症のできごとのただなかに生まれ、生きている若い世代は、どのような「死生観」をもってこれから先の時代を生きていくのでしょうか。もちろんそこでも、「若い世代」とひとくくりにはできないわけですが…かなり説明が多くなってしまいました。今日のこの話が面白いと思われた方は「文化人類学」という学問分野の話ですので、是非また興味をもって学んでいただくと、さらに視野を広げていただけるのではないかと思います。

 聖書に戻ります。ユダヤ教の死生観とはどのようなものだったでしょうか。今日のサドカイ派の人々が、当時のユダヤ人・ユダヤ教のなかで「復活はないと言っていた」ように「ユダヤ教の~」とひとくくりにもできないのでしょうが…。当時のユダヤ人・ユダヤ教の葬儀文化をみると、それは「人が死んだその日のうちに埋葬する」というものでした。その理由としては、ユダヤ教には「死後の世界」という概念がなく、仏教のように死者を「死後の世界」に送るという思想がないからだということです。そのかわり、埋葬された死者は神の審判の日に魂が復活するのだと考えます。魂が復活する…そうしたら肉体はどうなるのか…ユダヤ教の埋葬は、体を焼かずにそのまま土に埋める、あるいは洞穴などに埋葬する「土葬」です。肉体もまた復活するのだと考えるのでしょう。今日の話に出てきたサドカイ派の人々の主張は、そのようにして肉体をもって復活したら、生前結婚を繰り返していた女性は、いったい誰の妻になるのか、そのような質問でした。サドカイ派の人々も、もしかすると魂については、復活があると思っていたのかもしれません。

 ここで、サドカイ派の人々によって当たり前のように説明されている結婚についての当時の文化について、皆さんはどう思われたでしょうか。それは、このイエスの時代からみておそらく千年以上も前に、モーセという予言者が書いた神さまの「教え」に基づいています。片仮名で「レヴィラート婚」とか「レビラト婚」といわれる文化で、ユダヤ人・ユダヤ教の間だけではなく、世界中で、実は明治時代には日本の庶民の間でも行われていたといわれています。その目的は、子孫を絶やさないこと。血の繋がりを、家の血筋を絶やさないこと。そのために、女性が夫となった人の兄弟と結婚しなければならない、という文化です。女性の結婚の自由や、選択の自由、女性の人権の視点はそこにはありません。今日の話でも、23節で次のように言われています。「復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」要するに、この女は兄弟のうちの誰の「モノ」でしょうか、という質問です。当時の女性は、男性の所有物でした。イエスにこの質問をしたサドカイ派の「男性」は、19節で「モーセはわたしたちのために書いています」と言っています。この「わたしたち」には女性は入っていません。「わたしたち男性のために、わたしたち男性の血筋が絶やされないために、わたしたち男性が生きるために」…ここではそのように言われているわけです。サドカイ派の「男性」の言葉から、当時の社会に浸透していた男性中心主義、そのなかで、結婚の自由、選択の自由、生きる自由を奪われていた女性たち…男性の所有物「モノ」として扱われ、人として生きる権利を侵害されていた女性たちの存在が浮かび上がってきます。
 そんなサドカイ派の「男性」の言葉に、イエスは次のように答えられました。24節「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」「あなたたちはモーセが書いた聖書の何を読んでいるのか。そこに書かれている歴史や、そこに表されている神の力を、あなたたちは知らない」26節「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」…この箇所については少し説明が必要です。モーセという人物は、その生い立ちに重い境遇を背負っていました。モーセが生まれた当時、エジプトで起こったユダヤ人の男の赤ちゃんの虐殺…その悲惨な歴史のなかで、彼は殺されてしまうはずの命として生まれてきました。しかし、エジプトの王女に拾われ、エジプト人として育てられました。そのような生い立ちを持つなか、エジプトで苦しむ自分の仲間のユダヤ人たちを助けるために、彼はひとりのエジプト人を殺してしまう…そのことで彼はエジプトから逃げ、しかしエジプト人であることからユダヤ人のなかに入ることもできず、ミデヤン人という人々のもとで、ひっそりと生きていたんです。
 そんな彼に神さまが出会い、語りかけられたのがここに書かれている「柴の書」の箇所です。詳しくお読みになりたい場合は、聖書の前半、旧約の出エジプト記、3章をあとでお読みになってください。神さまはそこで、モーセに語りかけられました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」アブラハム、イサク、ヤコブというのは、モーセたちユダヤ人の先祖、彼らが信じる神さまとともに生きた人々でした。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」神のこの自己紹介は、この神自身が、アブラハム、イサク、ヤコブという人物たちの神であることだけではなく、そこから続く歴史のなか、生きてきた一人ひとりのユダヤ人たちの神であり、またいま神の前に立っているひとりのユダヤ人、モーセの神でもあるというメッセージだったでしょう。エジプト人としても、ユダヤ人としても生きられない、どこでどう生きたらよいかわからない、そのような状況にあったモーセにとって、この神との出会いが、彼が彼として生き始める「復活」のできごとだったのだと、イエスは語られたのではないかと私は思っています。
 イエスが語った「死生観」、キリスト教の「死生観」とはどのようなものでしょうか。「復活」それは、決してこの肉体の命が終わった「死後」の話だけではない。今を生きる「命」の話なのだということです。私が私として生きること…この世界に生きられない、生きさせてもらえない、どう生きたらいいかわからない、もうだめだ、そのようにして倒れてしまう私が、押さえつけられ倒されてしまっている私が、起こされて、「復活」させられて、私として生きる自由を取り戻す、そのような「命」の話だということです。今日の箇所で、サドカイ派の「男性」に答える言葉であれば、それは「女性」の「命」の話だということです。25節「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」この言葉は、次のように読むことができるのではないかと思います。「『復活』…それは、モーセが経験した『柴の書』のできごとのように、人が神と出会い、その人がその人として生きることができるようになること、死んだような状態から起こされて、新しい命に再び生きるようになることである。『死者の中から復活する』…そのようなことが実現するときには、女性は男性のために無理矢理に娶らされたり、自分の望まない形で嫁がされたりすることはない。そのような、社会が押し付ける『女性』というものから自由になって、天使のようなものとして、自由に生きることができる。結婚をしてもしなくてもいい、子どもを産んでも産まなくてもいい。あなたが生きるために、あなたは生きていい。わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神…そして、あなたの神である」27節で語られた「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉は「あなたが死んだような状態に置かれていることは悲しいことだ。あなたが死んでいていいはずがない。押さえつけられ自由を奪われ、殺されていいはずがない。あなたはあなたとして、生きていい」そのような言葉に聞こえてきます。「あなたが死んでいていいはずがない。殺されていいはずがない。あなたはあなたとして生きていい」それがイエスが、またキリスト教が、歴史を越えて私たちに伝えてくれている「死生観」であると思います。私たち一人ひとりに、いや誰より、この社会・世界のなかで、今日、いまのこのときも自由を、命を奪われ続けているその人に語りかけている「命」の言葉、「復活」の希望が、そこに表されていると思います。聖書の神さまは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、ユダヤ人の神、この女性の神」そしてあなたの神さま、「あなたを生かす神さま」です。


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