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表現と再現は似て非なるもの

これは最近舞台に立っていない僕がエンタメを引きで観て感じたこと。ただの感想である。
なのでくれぐれも気にしないでいただきたいし、毛頭否定するつもりもないのでご容赦いただきたい。

今回久々にnoteを書いているのには理由がある。最近観た古巣、劇団四季の舞台『クレイジーフォーユー』(以下CFY)が良すぎたこと。それとその他の舞台や映画、ドラマを観ていて感じていた事を、今の自分の言葉で言語化しておこうと思ったこと。この二点だ。

▼日本人故に

あの作品は面白かった。
日本中が泣いた。
涙なしでは見れない2時間15分。
日本〇〇賞受賞。

こういった評判はつきものだ。
しかし、大変申し訳ないが私は信用していない。

と言ってしまうと、うがった見方をした偏屈クソ野郎と思われるかもしれない。

無論否定をしているわけではない。それを楽しんでる人達が居るのは事実だし、それに関して特段何もいう事はない。
しかし先にも言ったように、私自身こういった日本人の感性を信用していない節は大いにある。
そしてこれにはちゃんと理由がある。

それはここが日本であり、我々が日本人だからだ。

日本人は皆幼少から年長者を敬い、尊敬し、そして「習う」ように教育されて来ている。

「〇〇ちゃんはこうしてるんだからこうしなさい」「どうしてお兄ちゃんのように出来ないの」

誰しもが誰かと比べられて大人になって来た。そしてそうやって大人になった我々はまたそうやって子に受け継いでいく。事実、残念な事に自分でも愛犬同士を比べてそう話しかけてしまう事はある。

教育という意味でこれが正解か不正解かという事は、今回の論点ではないので言及はしない。

ただ年長者、前任者に習う。前に習う。それが日本人であり、脈々と受け継がれて来たDNAなのだ。

であるから、名のある人が良いと言う作品は多くの人が良いと言い、CMで大ヒットと言われれば足を運び、誰かが泣いていればその気になり感動の大作と称賛する。

それが日本人の性であり、日本のエンタメなのだ。

▼日本のエンタメ

小説の映画化
小説の舞台化
映画の舞台化

原作が良いと後に続く作品の期待値は否が応でも上がる。最近ではアニメの映像化舞台化が実に多い。そしてこういった作品の評価でよく目にするのは決まって、

「〇〇そのままだった」
「原作の再現度が高かった」

である。つまり日本の観客が求めているものは往々にして「再現力」なのである。いや、観客だけではなく作り手もきっとそうなのかもしれない。

たしかに漫画やアニメからそのままのビジュアルで飛び出して来たヒーローは、刹那的に見れば興奮や感動の対象に充分なり得るだろう。
しかし一過性の満足や感動の為に再現を目的に選ぶのであれば、なにもお金をかけて制作しなくても原作を見聞きしておけば良いのではないだろうか。

勿論否定をするわけではない。素晴らしいと思う作品も当然ある。これはあくまで私の備忘録である事を忘れないでほしい。
これは日本人のDNAに刻まれている性なのだ。

一過性の満足を求める。
これが私の思う日本エンタメの現在の姿だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
舞台化、映画化は再現の場なのだ。

▼表現とは何か

私は再現表現は明確に違うと考えている。
では、表現とは何か。
自分なりの考えだが、それは再構築だと思う。

話は少し逸れるが、海外の演劇メソッドに目を向けるとというワードをよく耳にする。

作品は一つの旅であり、キャラクターはその旅を通して目的を達成する。

四角い枠の中で主人公にどんな旅をさせ、どんな景色を見せるか。何を感じさせるか。どんな試練を与えるか。どんな目的を達成させるのか。もしくはさせないか。

役者はその目的に向かって全身全霊でエネルギーを注ぐ。そしてそこに共感するからお客様の心に響く。

小説、戯曲、映画、舞台、全てにおいてキャラクターを構築するプロセスは同じだろう。

だがプロセスは同じでも決定的に違うものがある。それは伝え方だ。小説は活字を通して、映像は画面を通して、舞台は空間を通して伝えられる。
活字には活字ならではのロジックがあり、映像には映像であるが故のマジックがある。舞台は空気の振動を共有し肌で感じる事ができる。

つまり裏を返せば、全てにおいて伝え方にメソッドセオリーがあるのだ。それは決して共通ではない。活字は映像ではない。当たり前の話だ。で、あるから映像化、舞台化はそもそもの難易度が高いのだ。

そこで必要になるのが再構築である。作品の、キャラクターの目的やメッセージ性、核となるテーマを今一度原点に還り洗い出す作業だ。
主人公は小説では何を目的に旅をしていたのか。
映画では何を達成する為に葛藤していたのか。
小説では、映像では、舞台では、それをどう再構築するのか。

そうやって考え、生み出されたものこそが表現なのだ。
先の話に戻るが、この再構築を無視すると生まれるのが、私は再現だと考えている。

フォルムを真似るのは正直簡単だ。
喋り方、口癖、歩き方、服装、髪型を真似をするだけなら誰でも出来るだろう。

でも、何故その喋り方になったのか、どうしてそういった口癖が出て来るのか、何故その歩き方なのか。もっと言えば何故歩いているのか。出自に関係があるのか。親の影響か。時代の影響か。真の目的は何か。

時間はかかるが一つ一つ紐解く事によって原作では見えて来なかった物が見えて来るだろう。それを発見した時初めて表現の扉が見えて来るのだ。

再現をしたところできっとその扉は開かない。

だから作品を作る時は、紐解く事に、読み解く事に時間をかける事を決して恐れてはいけない。

そしてなにより、それこそが原作に対する最大のリスペクトだろう。

先日観に行ったCFYが素晴らしかったのは、初演から30年が経つにも関わらず、主演俳優達が前任者の演技を再現していなかったからだ。

役と向き合うことで心理にまで落とし込み、そしてそれがエネルギーとなって舞台上で躍動していた。これこそが表現であり、これこそがエンターテイメントなのではないだろうか。

日本のエンタメは再現と表現、どちらの比率が高いだろうか。

日本のエンタメの繁栄を切に願う。

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