記憶
もしも認知症になったらとしたら、そりゃあ辛いだろうと思う。そして怖いだろう。何も思い出せなくなったとしたら。今どこに居るのかさえ、分からなくなったなら。
軽く始まった時期が一番不安で恐怖を感じるとも聞くが、新しく施設へ入所して来られた方たちが、皆さん一様に『わかんない。わかんないんだよう。』と仰っているのを聴くと、重度になっても、そりゃ辛いよねと想像する。
ところが、人間というのは、ただそれだけでは終わらないんだよね。その後も人間は最後まで人間だ。言葉を失っても色んなことを感じるし、もしかしたら言葉を話せる頃よりも、より真実を分かるようになっているのかも知れない。
例えばほとんど何も認知できなくなった人々同士が、不思議なことに集い出す。感覚で『この人と居たい。』とか『このグループに入りたいなあ。』とか思うのだろう。
今日も同じテーブルに5人が集って『いったい、これはどういうことなんだろうね?布団はどうなったの?』と一人が言うと『ほんとにどういうことなんだろうね。今の若いもんは。布団は雨で濡れちゃってるよ。取り込みもしないんだもん。』。
『子供が帰って来るから早くご飯作らなきゃいけないんだけど、玄関はどこ?布団は今、乾燥機ってのがあるから大丈夫よ。』
何となく、それぞれが好き勝手なことを言ってるようで会話が成立しているような。しかし、共通している空気としては、全員が眉間に皺を寄せて不安と恐怖に怯えている様子。
『これからどうなっちゃうんだろうね。布団は・・・。布団もいいけどお腹減ったね。』
そこら辺までは、いつもの風景なのだけど、この日は、このグループにもう一人変わった人が混じっていた。
うちのKちゃんである。
介護職員でもある私のパートナー。
認知症をお持ちの方は、想像を絶する行いをするので、日々介護職員たちが大声を出している。『止めて!危ない!』とか。
普段は、その大声を出す方の立場であるKちゃんが、頬杖をついて、このグループの婆ちゃんたちと同じようなポーズを取り、会話に入り、同じタイミングで頷いたりして過ごしている。
人は自分と同じ仕草や表情をする人を仲間だと思うらしい。時々腰を叩いたりと、演技が板についているKちゃん。
『布団も大変だけどさ。知ってる?ここって、毎日寝床を用意してくれているらしいのよ。布団を干す心配いらないんだってさ。』
全員が注目して、『え?そうなの?』と言って、その後沈黙する。
しばらくしてまた不安なことを喋り出すと、またKちゃんが同じ仕草をしながら言う。
『何だかさあ。ここに座っているだけでご飯が3食出て来るらしいのよ。あ、おやつも出るそうよ。』と。
『ほんとなの?』と一同。
『ほんとらしいのよ。』とKちゃん。
私は、あっけに取られて見ていた。不穏を収める手段なのかも知れないが、見事な溶け込みようで、しかし完全ネガティブにはならず、『ほんとよねえ』と相槌を打ちながらも、メリットについて述べている。
そして、その、あっけに取られて見ていた私をKちゃんがハッ!として観る。あまりに老人になり切っていて、長らく気が付かなかったらしい。通常モードを忘れたかのように。
本当に分からなくなった人を演じるとそうなるのだと、いつか言っていたが。
後ほど、Kちゃんが言うには、『あの時Ohzaちゃんを見上げて、ほんとに『誰?!』と一瞬思ったんだよね。高齢者になり切ってた。でも、確信した。』と。
何を?
『私は、認知症になってもまたOhzaちゃんを好きになる。忘れてもまた好きになる。』
悲しいような。嬉しいような。
今のところ、私は認知症は始まっていない。(精神科の長谷川式テストを横で聴いていると、『あ、このテストやられたら私も介護認定下りるな』とは日々思うけど。←計算ができない。)
でも、私もまた、今でも時々、職場で、自宅で、道端でKちゃんの顔を観ると『あれ?』とハッとすることがある。もちろんそれは、忘れているからではない。ちゃんとKちゃんだと認識してはいるものの。
とにかく、ハッとする時がある。うまく言えないけれど。見慣れているけれど見飽きない。懐かしいけど、新しく出会ったかのような、この感じ。
多くのことを覚えていられなくとも、もしかしたら人は最後まで幸せでいられるのかも知れない。
さらに言うと。
記憶は失ってもまた作られる。そして、新しい物語が始まるのだ。毎日。
その物語が、多くの人にとってハッピーなストーリーであると良いなと思うが、それは多分、今この時の生き方にかかっているのかも知れない。
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