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データーとセンサー

最近出会ったナースさんに「人間失格」なる作品を薦められる。彼女は若いので(?)小説の方ではなく比較的最近の作品、映画の方の「人間失格」だった。

いつか”観るもの”が無くなったら観てみます・・・と答えたのは、わざわざ映像で観たくないという気持ち半分、ハッピーエンドであるはずないので好きじゃないという単純な理由。

「人間失格」は、中学生の頃に読んで、印象的で確かに素晴らしい作品だとは思ったものの、読後感がよろしくなかった。見聞きしたものを妙に詳細に覚える癖があるので、しばらくの間嫌な気持ちで過ごしたのを覚えている。

そして、もう一冊、同時期に読んでいた本を思い出した。

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である

学生運動が盛んだった1969年1月2日(大学2年)から同年6月22日(大学3年)までの、立命館大学での学生生活を中心に書かれている。

彼女の自殺後、彼女の下宿先を訪れた遺族が、十数冊の大学ノートに書かれた日記を発見した。日記は父親の手によりまとめられ、同人誌『那須文学』に掲載。後に新潮社より発売されベストセラーになった。

性別も年代も違うし、後者は個人の日記。ジャンルも違う。では何故思い出したのか?それは同時期に読んだ本という心のカテゴリーだけではなく、自分的には読後感が似ていると思ったからだろう。

前者はプロの作家で後者は一大学生が記した日記だが、まだ子供だった私にもわかるほど圧倒的な激しさと強さ、文章力で記されていた。願わくば、そのまま生き抜いて書き記していて欲しかったと、当時と同じく思う今がある。

彼女は、わずか20歳でこの世で目に映る全てのものに真っ向から立ち向かっていたので、その気迫や本気の迷いがそのまま文章に出ていたのだろう。そして、中学生だった自分は、そういったある種の美しさに心が動いたのだろう。

しかし、今回、読み返してみてイメージが変わる。(30年ぶりだからあたり前と言えば当たり前か。)

20歳で、いや、いくつになっても独りを原点としてずっと独りを選択してはいけない。

本や学校の勉強の中のみに学びを求めるだけではいけない。人は人から学ぶものだから。

彼女は当時の風潮に素直に染まって学生運動に燃えたりマルクスを読んだり、時には、

現在の資本が労働力を欲しているが故に、私は、そして私たちは学力という名の選別機にのせられ、なんとなく大学に入り、商品となってゆく。すべては資本の論理によって動かされ、資本を強大にしているだけである。
  なんとなく学生となった自己を直視するとき資本主義社会、帝国主義社会における主体としての自己を直視せざるをえない。それを否定する中にしか主体としての自己は存在しない。

と書き記す。

けれども、当時の世の中に似たような文章が至る所に記されている。本当に写し鏡のように素直だったのだと思う。しかし、そこに彼女自身が居ない。

読後感が似ていると感じたのは、世の中や他者が醜悪だと決めつけているところや、それが全てだと言い張り、その中で物事を考え語っているところだったのかも知れない。

最後は、何と闘っているのか?何に傷ついているのか?ということすら分からなくなってしまったのではないか?という感想を持つ。傷つき失望したのは、もっとシンプルなことだったのではないか?そこから逃れるためには沢山の言葉を必要とすることもある。そこに必死過ぎて本当の世界を観れないという現象もある。そんな生き方の癖もある。

沢山の人に会うと色んなことを言われる。全否定されることもあるが、魅力や能力を見つけてくれる場合もある。素直さは、そこで発揮されるべきもの。

人に会わないとチャンスも来ないし世界も見えない。もとい会うだけで本心を言わなければ、発する言葉は生涯論文みたいになってしまう。どんなに素晴らしい論文でも、そこに「自分」が無いと「へー」で終わってしまうのだ。

人が生きるために必要なものは水と食べ物と安全な場所、そして他人。

人間の脳は、どんな凄い人でも一つ。一つでしかない。そこから見える世界は限られている。

もはや話すことすら出来ないし、年代も違うものの、誰かの中に居るあなたの分身に出会う度、今でもこんな話をしている。

どちらにせよ私は、あなたに多くのことを学んだのだろう。多くでもあり、たった一つの真実でもあることを。

せめて(心は)独りになってはならないと。

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