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とある人生脚本の作家さんへ(エリック・バーン説)

人の心は意識と無意識で出来ていて、自分が意識できる部分というのは氷山の小さな一角に過ぎない。

自分でコントロール出来る意識の部分が氷山の一角なのだとしたら、コントロール出来ない方の無意識の世界は想像を絶する広大さ。

その無意識の中には一冊の本があり、自分の人生のストーリーが書きあがっている。そして人はその通りに生きる。

その脚本を書いたのは誰か?というと自分自身で、いつから書き始めたのか?というと、これまた人それぞれではあるのだけど、平均4~5歳頃からと言われている。

とは言っても4~5歳では語彙も少なければ複雑なストーリー展開も出来ないので、まずは一つだけ決める。”私はOKか?それともNOか?”ということ。

つまりは自分は存在して良いのか?悪いのか?を決定するらしい。もちろんほとんど無意識の世界だから覚えていないし、大人である私たちですら100% OKの人もいなければ 100% NOの人もいない。(どちらかだとひどく不自然で、もしかしたらその子は大人になるまで生きられないかも知れないから。)

そしてこれも覚えていない人がほとんどで、まあ、ヒプノセラピーでもやれば、ポン!と思い出すこともあるのだけど、それらの出来事のほとんどは、大人の私たちから見ればほんとに些細な出来事だったりもする。でも、多分当時は子供という原始的な生物なので凄く敏感で感受性が強い。

そう。その脚本の大筋、つまりは悲劇か?ハッピーエンドか?を決めるは判断材料に使われるのは、身近にいる大人から貰ったストローク。主に親御さんとか先生とか。

親御さんから言語的にしろ非言語的にしろ、”この世は怖いんだよ。”、”あなたはダメなんだよ。あの人もダメなんだよ。”というメッセージを受け取るような体験をして来た人の脚本にネガティブな部分がないはずがない。

で、ついでに言うと、かなりポジティブな性質の人の中にも苦難のストーリーが全くないわけでもない。

なので、何か暖かいものに触れたりハッピーを感じたりしたその後に、必ず引き戻しが起こるのは、実は”起こっている”んじゃなくて”起こしている”から。

でも、それに気がついてさえいれば、”今、自分が何をしているのか?”と言うことが分かるので軌道修正も可能。

ある時、セッションにお越し下さった方が「あの時はあんなに感動したのに、あの帰り路ですぐ自分を傷つけるようなことをしちゃって、その後、セッションの中の気づきを思い出して暖かい気持ちになって・・・、その後、また前のパターンに戻ってハッピーな感覚が消えちゃった。何言っているか分かりますか?」という正直なシェア。

うん、それ消えちゃったんじゃなくて消しちゃったの。で、起こっちゃったじゃなくて起こしちゃったの。と・・・・、ああ、何度でも言うさ。

で、それはある意味当たり前のことなんだよ と。

何十年も自分を痛めつけるパターンで過ごして来たのだから、一回や二回心地よさや健全さを味わってもまたすぐ戻そうとする。

で、あんまり急激にポジティブに行こうとすると危険。

ネガティブな脚本というのは腰にゴムがついているようなもので、過去と現在の2次元バンジージャンプ。ちょっと躓くとボーーン!とマイナスに戻っては嘆き疲れてしまう。(現実的に事故などにもなり得る。)

なので、無理せず少しづつその脚本という名のゴムを伸ばしたり縮めたりする感覚が良いのかも知れない。大丈夫。大人の私たちのそれは既に老朽化しているゴムのはず。(笑)もう自分でも古いパターンにあきているはず。

で、そんな日々にさえ、沢山の人が背中を貸してくれているし、沢山の腕が支えてくれる。

そして背中を貸してくれたり支えてくれた人々のように、自分もまた誰かにそれが出来る。

それを忘れているときにでさえ、ちゃんと守られている。

忘れていても、感謝できなくても、与えられている。

存在するだけで進めている。何せ人は変わらないでいることなんて出来ないのだから。

このことに関する目覚めは来るまで、私たちはまだ親御さんとか他の誰かの脚本の登場人物に過ぎなかったかも知れない。

誰かの子供、誰かの妻とか、誰かの何・・・とかいうキャラで性に合わない誰かの脚本に出演していただけかも知れない。まあ、それも貴重な体験だけど。

とにかく、それに気が付き始めた頃、人は前の脚本を脱して自分の脚本を書き始める。

全ては誰もが無意識の中で行っている作業ではあるけれど。

好きなストーリーを書いてね。



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