人生脚本とグレートマザー
今日初めて会った人に『私が居ないとダメな息子』の話を聴いた。
そんな話を聴くのに相応しい場所や場面であったか?と言うと、答えは否。
それは採用面接の場面だったから。
息子さんの話ではなく、あなたの話を聴きたい。
と言うわけで、仕事上の条件で何を望んでいるか?とか、看護観の方へと話を戻すのだが、やはり話は息子さんの方へ行く。
『いや、だってね。そうでしょ?私が働く上で息子に支障がないかどうか?というのは、大いに関係があるんですよ。あなたも人の親でしょ?』と、こんな言い方はされなかったが、物凄く遠回しにそのようなことを言っていた。
女とは、母親とは、妻とは、40以降の女とは、50以降の女とは、こうあるべき、こうするべき・・・etc。と仰る。
なので、話を戻す。
えーと、それは定時に帰って息子さんとの時間を多く取りたいということですかね?それならば、うちは残業しない方針の職場なんです。少なくとも私以外のナースは。
残業しなくて済む仕事の仕方、仕事のシステムというものを作っていますから。
と、具体的に話して行くのだが、やはり話は仕事のことではなく、ご子息へと移行。
途中で採用は無理だなと悟った。
この方は『私が居ないとダメな息子』の話がしたいだけだから。
そして、ご子息の年齢も明かされていたのだけど、もはや、『一緒の時間を取る』ことに必死になってはならない年齢だった。
が、この方は『私がいないとダメな息子』に育てることに心血を注いで来たので、おそらく彼は『私が居ても居なくても生きていける息子』になり損ねた。
これは、沢山遭遇して来た悲しいパターンの一つでもあるが、一番訳が分からないのは、その子供たち。何故だか上手くいかない。何故だか世間を渡っていけない。お母さんは、こんなに苦労して自分を育ててくれたのに・・・と、自分ばかりを責める。母が無意識下でやって来たことにも気付かずに。
いや、賢い子ほど気が付いているので、自分の孤独に向き合えない母を不憫に思うのかも知れない。
人は、期待された役割を演じることがあるから。
人の無意識の中には、人生脚本という一冊の本があって、それは、平均するとだいたい4~5歳頃から書き始めると言われている。その人の成長と共に、そのストーリーは複雑に成長し、充実したオリジナルの長編へと育って行く。人は、その自分で作った脚本の通りに生きて行く。
ところが、あまりに優しい子、あるいは、母親の中に閉じ込められた子供は、自分の物語を書き始めることすらままならない。生きながらにして、未だ親の脚本の中の登場人物に過ぎない人もいる。
かと言って、母親に悪意があるはずもない。何せ無意識下なのだから。
ただ一つ言えることがある。
『ずーーっと傍に居て頂戴。あなたは私のものよ。』と、そんな形の愛情を家族に持ってはいけない。そんな形の愛情は、他人に向けることすら間違いかも知れないが、少なくとも、最初は間違いを承知で他人に向けるべき恋や愛の類。
怪我したとしても、人はそこでしか成長出来ない。やがて本当の愛に辿り着けるまで。
『私が居ないとダメな子なんです。』
世の人の一部は、それを美談と言ってくれるかも知れない。
でも、一人でやっていることならいざ知らず、子供を犠牲にして自分の存在価値を確認し続けるなんて。
何でも手近で済まそうとするんじゃないよ。
たまたま採用の場面で出会った人物。
が、人生もしかり、仕事も、一人で動ける人が欲しい。
けれども、もしかしたら?と思う。ええ、ここが恐ろしいところ。この方もまた、未だその親御さんの脚本の登場人物に過ぎないのかも知れない。
そろそろ、その代々の呪いを解こうか。方法は簡単。自分で考え、自分で歩くだけで良い。
親から子へ、そしてまた子へ・・・という人生脚本の入れ子状態は鬱陶しいよ。それぞれ一冊の本として存在したいし、完結させたい。
***
今夜も月が綺麗だなあ。
会ったこともない青年のことを思い出すというのも変だが、今夜、彼が自分の心、感性でこの月を観れていますように。いや、月じゃなくてもいい。
何でもいいんだよ。
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