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いくつもの相反することが両立していた展覧会 - 「目 非常にはっきりとわからない」展 @千葉市美術館- を わからないなりに振り返る。

 千葉市美術館での現代美術の展覧会として歴代最多動員を記録した「目 非常にはっきりとわからない」@千葉市美術館 (2019年)。一方、web上では「くだらないと思って すぐに帰った」「ただ驚かせただけの見世物だ」といった意見も目にした。

 それは全ての展示を見ていないのか 全てを見た上でそう思ったのかは「わからない」し、逆に自分が全ての展示を見られたのかも 自分の知識が少ないから感動しただけなのかも「わからない」。

 会期中には、ネタバレしないように(※公式にネタバレを禁止されていたわけではない)noteを書いたけれど、図録も発刊されたタイミングで、もう一度、内容も含めて自分が感じた事を文章にしておきたいと思った。

0) 展示の内容 (少なくともわたしが目にしたもの)

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 展示を見た時系列によっても感想が変わりそうなので、まず、わたしの見たものを時系列で記載する。(2019.11.3訪問)

「千葉県の地球磁場逆転地層(チバニアン)に着想を得た展示」という前情報だけを持って美術館を訪れる。
① 1F(受付):
 美術館の入る建物の1Fにある”さや堂ホール”全体が養生され、ステージ上には梱包された彫刻や絵画(?)が置かれている。設営中のような雰囲気。(この部屋のみ撮影OK。)
② 7F(展示室):
 ここでも会場中は養生され、設営中のつづきのような展示。時計の文字盤を使った動くインスタレーション、工具、壁には絵とも接着剤の跡ともつかない線、足場の上で寝ている人(?)、千葉市美術館の所蔵作品…?等。どこまでが作品でどこからが作品でないのかわからない。
③ 8F(展示室)
 インスタレーションも工具も、床に落ちたゴミまで、7Fと全く同じ空間が広がる。一部、段ボール箱に書かれた文字が違っていたり。7Fとの間違い探しをはじめながら、じっくり見たはずの7Fで見えていなかったものの多さに驚く。
④ 再び7F:
 展示室の中で突如、業者のような人たちが作業を始める。展示室にカーテンをひいたり、作品に幕をかけたり、可動壁を動かし始めたり… 当日、「本日、図録用の撮影が入ります」という但し書きを目にしていたので、撮影用?と眺めていたが、会場全体で一気に作業が始まり、なんだかおかしい。8Fに戻ると、こちらでも同じように人が動いている。
 もしやこの展覧会は「展示」ではなく「パフォーマンス」だったの?と困惑しながら作業を見守る。どこまでがパフォーマーで、どこまでが一般の観客やスタッフなのか、区別がつかなくなる。
⑤ 7Fと8Fを何度も往復:
 30分ほどの作業を通じて物の配置はもとのように戻されていき、何事もなかったかのように②と全く同じ静的な状態に戻る。

 わたしはこれを2セット見つづけて、そして感じたのは、以下のような相反することが両立する感覚だった。

1) 「視覚」と「文脈」、ともに否定されたように感じつつも、それらをフル活用せずにはいられない。

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 展示室にあるものは、それ自体が美しかったり見ていて心が踊るようなものではない。その一方で、「●●の引用?」「こういうタイプの作品?」と予想していた展開は次々と裏切られていき、「●●系の作品」と型にはめて考えようとしていた自分自身がばからしく思えてきた。視覚で捉えることも文脈で捉えることも、どちらも否定される気分になる。

 それでも、作品を理解する手がかりは自分の目しかなく、とにかく必死に「見る」。7Fと8Fを比べる事で、「あれ?さっきこんなもの置いてあったっけ?」と、見ていたはずで見えていなかったものの多さに気づいて情けなくなりながらも「見る」。一方で、頭の中では過去に見た作品や本で読んだ知識を総動員して、作品か作品でないのか分からないものになんとか意味を見つけて自分のなかで「文脈」をつなげようとする。

 「視覚」も「文脈」も否定されたようでありながらも、「わからないからもういいや」と諦められず、そのどちらも総動員させて見ていた。

2) 展示する側と見る側の境界を曖昧にしながら、自分の立場の違いが際立つ。

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 「スケーパー」と呼ばれるパフォーマーの方々が動いている間、そこにいる人は、スケーパーなのか、それとも本当に働いている人(清掃員さんや警備員さん)なのか?そして、隣にいる観客もスケーパーではないのか?と、そこにいる人の役割はどんどん曖昧になっていく。ここでもし自分が何か目立つ挙動をすれば、観客の私も ほかの観客から見たら”展示する側の人”と思われるかもしれない。

 一方で、展示ケースの中で作業をする様子や可動壁を動かす様子など、”鑑賞者”の立場では通常は絶対に見られない光景を興味深く見ながら、”展示する側”にとっては、それは見慣れた光景かもしれないし、誰かに”見せるようなものではないもの”なのかもしれない、と思った。これを面白く見ている自分は”鑑賞する側”の人間だ、と改めて認識して、”展示する側”と”鑑賞する側”という立場の違いが、はっきりと際立って見えたように感じた。

3) 「美術館」らしくない、でも 「美術館」だからこそ成立する展示。

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 美術館を後にしながらも、「本当に”全部”見られたんだろうか?」と後ろ髪を引かれ続けられる気分だった。今まであまり意識したことがなかったけれど、「美術館」という場所は、「ここに来れば、いつでも同じ状態で作品が見られる。」「順路に沿って見ていけば、全部作品が見られる。」と、”安心して”作品を見られる場所だったんだなぁと気づいた。この展覧会はその安心感がなく、ひょっとしたら数時間後には変わっているんじゃないか?別の日に来たら変わっているんじゃないか?なんて、考えてしまう。

 でもその一方で、この展示が「美術館」という場所で行われていなかったらどうだろう?例えば芸術祭とか。そうしたらこんなに違和感は感じず、ひょっとしたらスケーパーの存在も、”普通の人”として見過ごしてしまったかもしれない。誰かが何かを動かしたり組み立てたりする作業は、日常の中では常に目にしていることだ。「美術館」という”非日常”の特別な空間で、日常生活での”普通”が起こっているからこそ違和感を感じて、わからないことに考えを巡らす体験になったんだと実感する。上に「文脈を否定」と書いたけれど、「美術館」という文脈の中でこそ成立する展示だったのか、とも思った。

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そして、図録が届いた。

 見てもわからなくて、展覧会が終結できなくて、図録を予約注文した。そして先週届いた。やっぱり見落としてしまったであろう部分があったし、スケーパーだと思っていた人が実はそうではなかったのかもしれないと思ったし、過去の作品からの引用なども改めて知った。

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 図録に掲載された千葉市美術館学芸員・畑井恵さんの文章には、

その発想(※チバニアンから得た着想)が展開し、地球の運動のように思えるくらい、現実をおもいっきり突き放してみたい。美術館という場所を作品や資材の搬入、展示、搬出という、人や物の出入りをただただ繰り返している場所として物質の運動のように見ることはできないものか、という考えに行き着く。現実そのものを、この場所に作り出そうとしたのが、「非常にはっきりとわからない」なのだ。
(わからない現実を追う -もうひとつの「網の目」を求めて / 畑井恵 )

とあった。ここまでに書いた、私自身が感じたことは、アーティストの意図とは全く違うものだったのかもしれない。

 それでも「わからない」を「わかりたい」と、見て、考えて、そこから感じた体験は、印象的な鑑賞体験だった。今後も多様な作品と出会いながらたくさんの「わからない」を体験すると思うけれど、正解に固執せず、見て・考えていきたい。

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【展覧会概要】 目 非常にはっきりとわからない @千葉市美術館

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会期:2019年11月2日(土)〜12月28日(日) (会期終了)
観覧料:一般 1200円、大学生 700円、小・中学生、高校生無料
※ ナイトミュージアム割引:金・土曜日の19時以降は大学生無料/一般600円
時間:10:00~18:00
金、土曜日は20:00まで
休館日:11月5日(火)、11日(月)、18日(月)、25日(月)
12月2日(月)、9日(月)、16日(月)、23日(月)
※11月5日(火)と12月2日(月)は全館休館

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