天と地の火の祭
龍がいる。
真珠色の鱗を持つ、この世で最も神に近い厳かな生き物。
一匹の龍が、今はその身を夕焼けに焦がしながら、悠然と舞ってゆく。
私と一緒にそれを見上げていた、買い物帰りの女性が嬉しそうに言う。
「ああ、火祭だね」
火祭か、と口の中で呟く。
古墳で四方を囲まれた広場を、煌々と照らす火と、太陽の女神を模して古代の装束に身を包んだ女性が脳裏に浮かぶ。
この街では、祭りを龍の知らせで行う。
それは古墳ができるよりずっと昔から行われる神代の祭事だという。
・ ・ ・
「ありゃあ、こりゃ無理だ。」
祭りを取り仕切る老人が言う。
いや、わざわざ言わなくてもわかるよ、じいちゃん、と高校生の少年が隣で呆れている。
そう、誰もが言わなくてもわかるほど、土砂降りの雨だ。
幸い風がなかったので、急な雨を浴びる寸前に運営するメンバーは慌ててテントに逃げ込む。
ゆかりは、同じく運営メンバーの女性たちに支えられ、いの一番にテントの中に逃げ込んだ。
「良かったわぁ、衣装に泥がはねないで。せっかくの晴れ姿だものね、ゆかりちゃん」
火祭の主役であるゆかりは、その名にちなんだわけではないが、薄紫の生地で作られた日本神話の女神を模した衣装を身に纏っている。
自分で言うのもなんだが、かなりきれいだと思う。
けど、この雨ではせっかくの姿で主役を張ることもできない。
ゆかりがため息をつきかけたとき、突然、稲光が轟音と共に周囲を明るく照らす。
衝撃波のある雷音はテントの下にいたものたちをも襲い、全員、悲鳴を上げて目を瞑った。
・ ・ ・
まぶたを閉じたまま、見た。
二人仲睦まじく寄り添う姿。
けれどそれは叶わぬ想いだと、これ以上ないほど知っている。
なぜだろう。幸せと哀しみが、まるで自分のもののように感じられ、胸が痛いほど締め付けられる。
涙が、零れる。
「ああ……」
小さなため息が漏れた。
どうして忘れていたんだろう。
この想いを忘れることができたのだろう。
幻の中にいる二人のうち、薄紫の衣を纏った女性が、髪飾りを揺らして振り返る。
その微笑みはよく知っている。
けど、瞳の中にある深い哀しみと深淵を覗き込むような神秘的な風情を、ゆかりは知らなかった。
「そなたは、妾じゃ」
女神が微笑む。自分そっくりな顔が。
「貴女は、私ね」
ゆかりは頷く。
千年の長い時間、自分が何をしてきたのか、はっきりと思い出したことを告げるために。
・ ・ ・
稲光が過ぎ去り、眼前に現れた存在を皆、呆気にとられて見上げている。
「空が……」
先程までの嵐は止み、周りは生き物の気配すらない静寂に包まれていた。
人々が目を奪われたのは、空だ。
先ほどの土砂降りが嘘のように晴れ上がった空は、まるで金粉を振りまいたかのように、光り輝く黄金色にどこまでも染まっていた。
天の頂上、水を揺蕩う真珠色の帯のように艶めかしい動きで、龍が、天降る。
誰もが息をのむ中、龍はその巨体を古墳の広場の上でくねらせ、淡い草色に輝く瞳を人々に向けた。
ヒュゥィ、と高く透き通った笛の音が響く。否、それは龍から発された声である。
『宴を続けよ、祓い火を灯し、舞い踊らせよ』
人々の中で音は言葉に変わり、響く。
それが絶対の命令のように、人々の中から驚きは消えた。
代わりに、我先にと、人々は祭の興奮を取り戻し、瞬く間に準備を整える。
火祭は、龍の御前で始まった。
・ ・ ・
篝火は、天に上る火柱となって金色の広場を照らす。
龍に見守られた前代未聞の火祭は今、最高潮を迎えた。
火柱と金屏風を背に、女神の姿をした、ゆかりが舞う。
薄紫の衣は火柱の光に透け薄く輝き、炎の生み出す風に揺らめいて、神聖な風情を帯びている。
ゆかりは、溢れんばかりの思いを込め、一心に舞っていた。
千年の時を支えてくれた人々に、感謝を込めて。
鈴を鳴らす。足を踏みしめ、勢いをつけて一歩引く。
同時に、龍が、ふぅぅぅと深い息を吐く。
その吐息を受け、星の欠片のように輝く火の粉は、輝く帯となってゆかりの体を包んだ。
彼女は舞い続ける。
火の粉は、今や星の川のよう。
彼女の輪郭は強い輝きに紛れてしまい、見ることは叶わない。
黄金色の古墳の広場に、より一層強い鈴の音が響き、炎が散じる。
鮮やかな炎色の鱗を持つ小柄な龍が、篝火の中から飛び立った。
それは、千年の昔、人の身ゆえに愛する者と想いを遂げることを禁じられ、罪人とされた一人の女性だったもの。
長い長い時間を経て、総ての罪を祓い清めた彼女を待ちわびていた真珠の龍。
彼は嬉しそうに目を細め、無邪気な子猫のように天で遊ぶ炎の色を纏った伴侶の元へと戻ってゆく。
それを、街の人々は歓声とともに見送った。
・ ・ ・
この街には龍がいる。
彼ら二人が空を舞うとき、人々は古墳に四方を囲まれた広場で大きな大きな篝火を焚く。
すると、その日は必ず息をのむほど鮮やかな夕焼けに街が染まる。
まるで、空の上でも火祭が行われているように、私には見えた。
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