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大学で学んだ「国際教養」は、巡り巡って国際社会を生きる自分を助けてくれる

先日、ある大学の留学担当の方々が「これからは、(来日する)留学生にもSTEM教育だけじゃなく、より幅広い教養(芸術面や哲学・精神面含)も身につけてもらえる環境を整備していきたい」と話されていて、ふと、私自身が大学時代に「国際教養」を学んだ糧が、巡り巡って今、とても生きているんじゃないかなって思う場面を振り返っていた。

あの頃は、「法学部」とか「経済学部」とか、ある程度言葉だけでイメージできる学部とは違って、「『国際教養』って、何学んでんの?」と聞かれたときに、うまく答えられない自分がもどかしくもあったけれど、たぶん、「国際教養」自体が、そんな一言で答えられるようなものでもなくて、しいていえば、「国際社会で、強かに、賢く、豊かに生きていく術」かな?と。物事とか人との接し方とか、多面的に、広い視野で見ることができて、様々なことに気づいて、多くの人々が見過ごす課題の発見や、いろんなことに歓びを得られる、つまり人生を豊かにする「武器」を身に着けているのだ、とそう自分で納得した。

むしろこれは私の「生存戦略」であり、個人的な課題を克服しよう(リハビリしよう)と進んだ道で、それは実は社会の課題でもあると気づき、運を味方に活躍できる環境を見つけた人生だけれど、教養を身につけ、そして同じ解像度で語れる人々と出会うと、本当に心が豊かになる。

150年以上前に生きた正岡子規と夏目漱石の文学や俳句に残された言葉に、文字だけではなく、二人の友情、その当時の背景やお互いに対する想いが心に届く、そんな感覚。

インドは、まだまだ社会全体で「エンジニアか医者か法律家」になることが求められている環境。当然ながら、そこに日系企業を含むビジネス界からの需要もあるわけだけど、そうであれば、そこは企業側に教育から支援してもらい、例えば、将来的に日本文学研究者や、南インドのタミル語と日本語の起源研究を大野先生に続く後継者として育てる環境、奨学金制度があると、少しでも、社会をより豊かにすることに貢献できるのではないか、そんなことも思いふけっていました。

まぁ、思いふけるだけじゃなく、インドの学生や、教授や親御さんに対しても、「外国人特権」をうまく生かしてスピーチすることも多々。

そんな、自分の個人的な見識や社会に対する想いを、伝えられる環境にいることも、また有難きこと。


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