見出し画像

保存でもあり、同時に開発でもある、という微妙で曖昧な何か【本:隈研吾による隈研吾】

ある国立美術館で、飛行機内で読む本を探していた。正確には、国立美術館の展覧会を見ている時間は無く、お土産屋にしては多くの本が置いてあり、少しの時間を潰すのには最適だった。

数年前に読んだ『自分の仕事をつくる』という本や、ドイツの建築家ブルーノ・タウト氏の紹介本。本当は、タウト氏本人の『日本美の再発見』『忘れられた日本』『建築とは何か』等の本があったら選んでいたけれど、それらは販売されていなかった。

タウト氏は、伝統的な日本建築や日本文化の価値を「最大の単純の中の最大の芸術」として世界に広めたことで知られる・・・ということも、つい最近になって知ったばかりだけれど、本当の意味での日本文化や日本美を知るためには、外からの視点というものはとても大きな役割を果たす。彼は1933年に京都の桂離宮を訪ね、落涙するほどに感激したのだそう。『忘れられた日本』は、1933年から3年間、日本に住んだタウト氏が見た日本の農家、善、心、工芸、建築などの見聞録。

以前訪れた、東京国立近代美術館で開催されていた隈研吾展「ネコの5原則」というタイトルがあって「なぜ隈研吾とネコ?」と気になっていたので、『隈研吾による隈研吾』という本にした。

「僕の日常は移動です。」という文章から始まる著書。私は、全然知らなかった。隈研吾氏は、コンクリートの建物だけを設計していて、つい最近になって木々や透明ガラスを設計しているという印象を持っていたけれど、最初から都市郊外の住宅地を「死んだ家」、光や風が入り込み農業の営みがある土地を「生きた家」と呼び、ずっと固い建築が嫌いだったこと。「場所」という糊を使って、自分という割れた鏡を回復したい思いで、ロラン・バルトの本『彼自身によるロラン・バルト』のような本を、書いたこと。(でもスタンスは全く違っていたと後から気づいたこと)そして、獣医になりたかったという夢も。日常が移動だけれど、「樹木のように生きる」とご自身を語っていた。

移動によっていろんな人、物に出会うことが、
僕にはどうしても必要なのです。

画像1

ロラン・バルト氏が書いた1975年という時代は、国家、社会、コミュニティといった集団が個人に割れ、さらにこの個人自身がいくつもの破片にも割れていく時代の到来を預言するテキストでもありました。僕らは、今、自分自身にすら粉砕された後の時代を生きています。

・痕跡を残しながら生きているところが、樹木的
・人間は日記を書いたり、写真を撮ったり、ツイートしたり、昔から痕跡を残すことに必死になる生物。家を建てるというのも、そんな痕跡願望のなせるわざであることは間違いない

・その樹木がどんな土から栄養を得て、どんな水を吸い上げてきたか。どんな光を浴びて、どんな風に吹かれて育ってきたかは、なかなか検索にはのってこない。

・自分にとっての土、水、光、風とは
・思い出すにあたっては、場所が手掛かりに

・マックスウェイバーによる資本主義分析
・宗教と美学との関連性
・レヴィ=ストロース
・梅棹忠夫

・モダニズム建築の、そもそもモダンとは何か、近代とはどういう時代なのか

・教養というのは、実は毎日を生きていく上でとても力になってくれるもので、それは樹木にとっての土や水のような形で、僕の体を支え、守ってくれている

・境界人
・マックス・ウェイバー
・ゴシック
・里山
・土間
・積み木
・ブルーノ・タウト
・関係
・アーツ・アンド・クラフツ
・田園調布
・獣医
・反建築
・木造精神
・砂漠
・植物
・サバンナの記録

画像2

・マックス・ウェイバーの「境界人」という概念
・高度成長期の日本の経済は、建築と土木によって牽引されていた
・ウェイバーがいうところの境界人は、都会や田舎に対して、どちらにも属さず、それゆえに、どちらに対しても批判的な意地悪な見方ができる人間

・ただ、若き境界人の実情は、境界の周辺で、どっちつかずに、ああでもないこうでもないと迷い揺れているわけで、メタレベルという言葉から連想されるような、冷静で偉そうなものではなかった

・境界を境界であると認識するためには、境界の両側を移動しなくてはならない

・マックス・ウェイバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』プロテスタンティズム特有の禁欲、勤勉の精神が、近代の資本主義経済を生み出したという説
・父親がまじめなサラリーマンで、酒を一滴も飲まないカタブツだったことに対する反発から、ウェーバーに惹かれていったのかもしれません

・モダニズム建築のリーダー:ル・コルビュジエはプロテスタントの中でも最も戒律の厳しいことで知られるカルヴァン派の信者の家に生まれた。モダニズム建築特有の、大きく透明なガラス窓は、このカルヴァン派の延長線上にあるという説。

・プロテスタンティズムの禁欲と、資本主義の強欲とのネジレを、ウェーバーは見事に掘り起こして倫理化した。モダニズムの建築の中にも、ネジレがあり、一方に装飾を排した徹底して禁欲的な白い壁があり、もう一方に、官能的ともいえる、ダイナミックな流動的空間が生成される。

・19世紀までの装飾的建築はカトリック的、モダニズム建築はプロテスタント的

・細かく、小さい単位を組み合わせて作られるゴシックの教会は、しばしば「森」に例えられる。森のような建築は、僕のひとつの理想です。

・デザインも建築も、宗教とは切り離せない

・1954年、20世紀を支配した「郊外化」という世界史的現象が、日本で吹き荒れる直前。駅のすぐ脇から、田んぼと畑が始まっていた。典型的な里山の風景。

・近所の「ジュンコちゃんちは」魅力的で、神話的。農業という生産行為が行われていて、生き物がいて、生命が具体的にザワザワと循環していて、大地とつながっていた。いつ行っても、春には春の、夏には夏の匂いが。

・本:『建築的欲望の終焉』郊外住宅は、本質が暗い
・本:『住宅問題』1973年(マルクスと共に『資本論』を書く)

・人間という生物は、大地という自然と直接つながっている

・母親は、父親よりずっとバランスが取れた人間なのに、何でこの賢い母が家でずっと待たされていなければならないのかが、不思議だった。たぶんそのせいで、専業主婦におさまらない、活発な女性に惹かれるくせがある。

・ハイデガー「建てる、住む、思考する」という講演(1951年)
『建築とは橋である』建築は、必ずどこかとどこかをつなぐ存在だから

・(中国の)竹の家の孔は、人間と自然を結び付けようという意識、長岡の孔は人と人を結び付けようという意識。昔の農家の土間のように土とすることで、やわらかさと湿り気を与えた。

・本:『神体山』景山春樹

・栃木県の馬頭町に那珂川町馬頭広重美術館を設計。馬頭町にもまた里山があった。メインの街道と、里山に分け入って神社に向かう参道が直交するのが、日本の集落の基本構造。里山の森が失われたら、村の生活そのものが成立しなくなること、自分達が生き続けていけないことを、人々はよくわかっていました。だから人々は、里山に神社を建てて、里山の自然を保全した。

建築を脳の産物から解放したい。脳で作った建築は、理屈が主に出すぎていて、ぎくしゃくして、硬いから。シングルスキンで何もかも覆うと、建築に生物的な大らかさ、やわらかさが生まれてくる

・ジュンコちゃんちの地面は、生きていた

・工業化社会では、大地と建築を切り離すのが大前提だった
・ヨーロッパには、評判のいい広場がたくさんあるが、どれも硬くて乾いていて、実際のところ、僕自身はあまり好きになれません。地面というものに対する感性に、そもそも民族的な差異があるのではないかと感じます。

・地面と建築の関係性が、地中海の北と南では対照的。
ヨーロッパは、地面の上に基壇と呼ばれるプラットフォームを作って、その上に神殿を建てる。古代ギリシャ、ローマに起源を持つ、古典主義建築という様式、とくにパルテノン神殿は基壇建築であり、大地との切断が繰り返される。地中海の南のアフリカ側の人々は、地面自体を神聖なものだと考えていたので、プラットフォームを必要としていませんでした。

・ヨーロッパの広場のように、大地から離れた考え方の行き着いた先が、20世紀のモダニズム建築のピロティ。モダニズム建築と古典主義建築は実は同類。

・竹を建築材料として使いたいというより、竹ヤブをそこに作りたいと考えてしまう

・根津美術館:表参道の軽い気分から、根津美術館のちょっと落ち着いた気分へと転換するためのゲート、フィルターのようなものが必要だと考えた。それには、竹ヤブしかないだろうと、設計の最初の時から考えていました。昔の人は、鳥居ひとつくぐるだけで、門一つ通り抜けるだけで、気分を転換できたのかもしれませんが、今の人間は鈍感になってしまったから、そうはいかない。

・僕は建築をやっているのに、いつまでたってもコンクリートがあまり好きになれない。コンクリートが、取り返しのつかない材料だから。木造は逆に積み木的です。積み木のように粒子状の物体がパラパラと散らばった状態のことを、建築のデモクラシーなどと呼んでいます。

・自分の失われた人生を託した岸田氏(東大の「安田講堂」の設計者)

・スターバックスコーヒー 太宰府天満宮表参道店
木の細かい部材は、インテリアの飾りではなく、建築を支えている重要な構造部材です。コンクリートの全体主義的性格に抵抗しているうちに、木の積み木がどんどん進化を遂げていった。このような進化が可能であったのは、日本の木造建築が継承してきた繊細な技術と、コンピュータによる高度な構造計算技術を合体させたから

・隙間の力
建築を作る上で、隙間は一番大事なものです。建築を構成する粒子の間の隙間から、光や風や匂いが入ってきます。隙間がないと、人間は窒息してしまうのです。

・韓国の学者で、僕の本の韓国語訳をほとんどやってくれるリム・テヒさん『日本人の作る建築は隙間がなくて、きちんとしすぎているから、息が詰まるというのです。でも、隈さんの建築には隙間がある。そこが一番の魅力。』日本の建築も、日本の社会も、日本人も、隙間がなさすぎて、きちんきちんとしすぎているというのがテヒさんの分析です。

・建築においても、そして人生においても、日本人は、なにしろ隙間が少なすぎるのです

・ル・コルビジエは正方形を愛した建築家。人間の生活は、そもそも、勝手気ままな自由なものであり、それを正方形という輪郭の中に収めるのは簡単ではない。

・父との設計会議。民主主義的なプロセスの合議制。近代家族というのは、父子関係という、面倒くさいフロイト的関係に支配された枠組みです。小さく閉じていて、どうしても息が詰まります。多世代同居や大家族という仕組みがあると、さまざまなバッファーや、関係の複層化によって、もう少し気楽に生きていける。

・設計会議は、常に現場で。臨場感をもっていると、話は抽象的にならずに、徹底的に具体的になる。

・遠くの人に何かを伝えたくて、人は本を書いたり音楽を作ったりするが、建築は目の前の人とのコミュニケーションのために発明されました。

「目の前」を媒介として、世界と対等に向かい合える。サルトルが少し難しい言葉で、目の前がいかに大事であり、近くのものから解決していかなければいけないと語っています。何しろ世界には問題が多すぎるからです。

・しかし、「目の前」をローカルというと、ローカル対グローバルなどという抽象的な図式に陥って、どちらが大事なのかという無意味な議論で時間つぶしをする人が多いので、僕は「ローカル」とは言いません。「目の前」とちゃんと向き合って、「目の前」から解決していくことは、生物にとって、生死にかかわる切実な行動原理だということだけを強調します。

・ユートピア思想の20世紀版。「新しい家」はすべての問題を解決し、永遠の幸福を約束します。僕の建築の一つの特徴は「増築的」であり、反ユートピア的であること。

・1955年、日本を訪れた近代建築の巨匠ル・コルビジエは「線の建築」が嫌いで、桂離宮を案内されても「線が多すぎる」と憮然として呟いたと言われる。

・1933年に桂離宮を訪れたブルーノ・タウトは、入り口の生きた竹を編んでできた桂垣を見ただけで「自分が長い間捜し求めてきた、自然と共生する建築の理想像を桂離宮に発見し、思わず涙が流れてしまった」という。

・熱海のタウトが設計した日向別邸との出会い
海と人間との「関係」がテーマ。桂離宮も「形」の建築ではなく、庭と人間との「関係」がテーマなのだと、タウトは書き残している。(隈研吾氏は、この隣に「水/ガラス」という関係をテーマに空間とディーテールをつくった)

・本:『新・建築入門』

・歌舞伎座
保存か開発かという二項対立では割り切れない作業。そういう曖昧な領域へと踏み込むことで、初めて建築の保存が可能になる。我々は今、まったく別の厳しい時代を生きています。困難な政治的、経済的状態をかろうじてしのいでいくために必要なのは、保存でもあり、同時に開発でもある、という微妙で曖昧な何か。松竹という一民間の努力で運営されてきたのが、歌舞伎座。経済的にも政治的にも弱体化した日本政府が、文化という名目で補助金を出せる時代は、とうの昔に過ぎ去っている。

・劇場は昔のままでいいと、松竹の人も、歌舞伎役者さんたちも口を揃えていましたが、僕は黙ってうなずきながらも「実際のところ、そうはいかないだろう」と心の中でつぶやいていました。なえなら、当たり前のことですが、僕らは今という時代に生きているからです。「昔」そのものが、人間の意識の中で変化し続けている。それぞれの心の中で、「昔」は進化し、変わり続けている。そもそも人間とは、時間と共に流れているいい加減な生物だということを理解しなくてはなりません。人間は、だましだましを積み重ねて、かろうじて毎日を生きている弱いものです。

・人間とは、そういう流れ続けるものなのです。

・自分と世界とを無駄なく繋げたときに、自分と世界との間に、持続可能な、長持ちする関係が生まれます。それが長持ちするかを判断する大事な指標が、「安さ」です。僕が捜しているのは、脱工業化社会の安さです。目の前にころがっているものをかき集めてくるブリコラージュの安さは、脱工業化社会の安さです。

・中国のセラミックには、皇帝的、故宮博物院的な洗練されたセラミックがある一方で、農村的、野焼き的な素朴なセラミックがあります。両極端があるところが中国の魅力で、特にこの農村的で大地とつながった中国が、僕は大好きなのです。近頃の金満的な中国が、どんどん一方的に、皇帝的な豪華さに傾斜していくのを見るにつけ、土っぽい中国の持つ大きな可能性を、建築の実物を通じて、中国の人達にも見せたいのです

・ガーデンシティとは、19世紀の産業革命で大きなダメージを受けたイギリスに、自然と一体となった生活を取り戻そうという運動。ウィリアム・モリス達が、19世紀末に始めたアーツ・アンド・クラフツ運動の延長線上にある、一種の反近代の運動。

・布田園調布の教会を通じて、初めて「建築」に出会った。

・何が欲しいのか、何がいいのかは、とりあえずわかりません。そんな簡単にはわかるはずもないのです。それでも、現状を否定することが大事なのです。その拒否のスタンスから、何か新しいもの、今までの世界にはなかったものが生まれます。

・本:『10宅論』1986年、32歳のときに書いた本。1985年から86年、ニューヨークのコロンビア大学で、客員研究員という、「何もしなくていい」ポジションをもらったのですが、何もしないわけにもいかなくて、アメリカをぶらぶら旅行しました。その合間に、もやもやした気持ちをぶつけて書いたのが『10宅論』です。

・一つの場所を占有し、環境を変えてしまうのが建築の宿命。中でも個人住宅は最も犯罪性が強い

・ニューヨークの大学の図書館にこもって、意地の悪い本を書いている自分は、ひねくれた奥手でした。しかし、今になって思えば、奥手であるということは、かけがえのない財産なのです。先行する人達をじっくりと観察することができるからです。後ろを歩くからこそ、世界を客観的に見ることができるし、粘り強く努力し続けることができるのです。

・日本人と違って、禁欲的なところがまるでなく、自分の欲望に素直に見える中国人は、自分の欲望を一方的に肯定しながら、他方でその欲望を相対化して、笑い飛ばしているのかもしれません。だとしたならば、この人達は本当に、手強い人達です。

・代々木体育館を見た瞬間、突然に、天から光が降ってきた。「いつ、建築家になろうと決心したのですか」と聞かれるとき、この瞬間とか、オリンピックの頃に建築家という職業があるということを知り、すごく面白そうな仕事だと思った。ただ、その前にしたかった仕事は、獣医だった。犬や猫と遊んでいるのが大好きだった。だから、木や紙で建築を作りたいと夢想している点では、獣医にあこがれていた頃の自分とあまり変わっていないのかもしれません。

・20世紀を代表する建築家
アメリカのフランク・ロイド・ライト
フランスのル・コルビュジエ
ドイツのミース・ファン・デル・ローエ

・見えない建築、負ける建築へと、どんどん惹かれていった

・栄光学園で「世界」というものと出会う
栄光学園では、カトリックの一派で、厳格な規律と教育とで知られるイエズス会が、ユニークな中高一貫教育を行っており、教育の主役は、世界中からやってきた神父達。彼らは十分すぎるくらいに人間臭くて、弱点だらけの、愛すべき人達でした。

・解剖学者の養老先生と僕が気が合う理由は、僕らがともに「身体派」であるからだと思います。建築家というのは、具体的で、地に足のついた思考をする人が多いと養老先生は褒めてくれましたが、どうしようもなく頭でっかちで、概念的な建築家を僕はたくさん見ています。

・機能主義は、効率的な生と結びついている以上に、絶対的な死とつながっているのです

・大阪万博で、どうやって、環境に対して、自然に対して、「調和」した文明を築けるかが、この時代の主旋律だと感じていた僕は、「進歩」に強い違和感を感じていた

・建築冬の時代:僕は、高度成長期的なイケイケの建築を作りたくて建築学科に進んだわけではない。そもそも建築の時代は終わった、ということを前提にして、「その後」の建築を作りたかったのです。

・オイルショックも建築の没落も「想定外」ではなく、むしろ、やっと待っていた時代が来たという感じでした

・19世紀的で産業革命的な工業から、大量生産を基本とするアメリカ的な工業が20世紀の覇権を握る

・コルビュジエとミースが、モダニズム建築のエースというポジションを獲得するのは、ニューヨークの近代美術館(MoMA)で1932年に開かれた「モダン・アーキテクチュア」という名の展覧会

・コンクリートっぽい部分、鉄っぽい部分を、どうやったら消していけるのだろうか?解決策をすぐに思い付くわけでもなく、拒否のもやもやとした気分だけが続いていました

・そういう違和感の中で出会った何人かのメンター
鈴木博之氏
ジョサイア・コンドル氏
(東大の建築学科の初代の教授であり、アーツ・アンド・クラフツ運動の動きに繋がる建築家、産業革命に対して違和感を抱いていた、ひねくれ者の中世主義者のコンドルだからこそ、日本などという、ミステリアスな辺境に魅せられた。彼は新しい日本を作ろうとするよりも、古い日本に心底から惚れ込んだ。今でいえば、アジアに憧れてヨーロッパに見切りをつけた、反文明、反進歩の、一種のヒッピー。弱さを認めて自分というものをさらけ出すのが教育の原点だと僕は思うが、コンドル氏はそういう意味において本当の教師だった。ただ、そんな人間だから、明治政府とコンドル氏は必ずしもうまくいかず、1888年、東大を退職する。古き日本に惚れ込んでいた中世主義者のコンドルとしては、フラストレーションがたまる人生だったと思う。そのフラストレーションを、彼は日本画を描くことで晴らしました)
内田祥哉氏
日本の伝統的な木造建築がどうやって作られているか、その美しさの秘密が何かを、内田先生から教わった。日本の伝統文化の中に、たそがれの時代の近代的精神が見つかると教えてくれた)

・20世紀以前、ヨーロッパ社会では、エリート階級の中で、美に敏感な人が建築家に。日本という場所は、破産した深川の材木屋の息子が建築家になれる、ある意味フラットな場所だった。日本の建築設計者は、建築家というより、大工に近いような存在だからだと僕は考えます。日本において、建築設計とクライアントとの関係はフラットです。木造建築には、使える材料に制限があり、その制約の中で競い合うというところに、木造建築の本質があった

・コンドルの後を継いで、東大の建築学科を率い、「日銀本店」(1896年)、「東京駅」(1914年)などの重要な建物を設計した辰野金吾も、佐賀の貧しい家の生まれでした。

・控え目な建築を、コツコツと作り続けていく

・日本建築の本質は、空間の変化に対応するだけではなく、柱の位置さえも自由に動かせるのこと。単に作り出せるだけではなく、その後の変化に対しても柔軟に対応できるところがすごい

・原広司先生
原先生は、木造を研究するのではなく、集落の研究を始めました
当時はやり始めていたクラシック建築のリバイバルにも目もくれず、ただ、世界の果てにある朽ち果てつつある少数民族の集落をこつこつと研究していた。原先生は、学生のことにはまるで関心がなく、自分のことにしか関心がありませんでした。誰も何も強制しないし、何も教えてくれない空白の場所でした。それは、僕にとっては幸いでした。「自分でやるしかないんだ。自分で何か起こすしかないんだ」ということを思い知らされたからです。

絶えず上から圧力があり、その圧力に押されて、勉強して、努力してきて得た教育というものは、意外にももろいもの。原研究室では、圧力は自分で作るものでした。自分で見つけたものだから、長続きする。

・梅棹忠夫の『サバンナの記憶』
・アフリカの集落調査:地図に載っていない小さな集落ですから、あらかじめどこを調査するかを決めておくのは不可能です。すべての村を調査するわけではありません。走っても走っても似たような村が続いて先生が反応しないと、車は砂の上をただ走り続けます。

・原研究室での、世界集落調査:地中海、中南米、東欧、インド・中近東

・調査をする際、子ども達に手伝ってもらう。子どもと仲良くやっていると、親は文句をいいません。

・原先生
「建築家になるためには、建築家の近くにいなくちゃいけない」

・丹下先生
「建築家に必要なのは、才能ではなくて、ネバリだけだ」

集落から「小ささ」を学べたこと。小さかったのは集落全体というよりも、集落を構成する単位。サバンナのコンパクト型の家は、今まで見たことが無い程に、生きて輝いていた

・サハラから戻って、1か月で修士論文を書き上げました。タイトルは「住居集合と植生」です。ここでまた、反建築的にひねくれた思考法が顔を出します。「乾いた」ものに対して違和感があったのです。建築だけ見ててもしょうがないんじゃないか、集落の周りの植生、集落の中の樹木の配置の方が、集落にとって決定的に大事なのではないかという仮説を立てました。しかし、植生と建築との間に何らかの法則を見つけようとしても、結局何も見つかりませんでした。木はでたらめに生えているのです。それほどに木と人間は切っても切れないということでもある。

・しかし、一応論文ですから、でたらめだと書くわけにもいかず、いろいろと法則らしきものをこじつけましたが、修士論文としては、まったくひどいレベルのものでした

・原先生:「隈には境界というものがない」「えてして人間というものは境界を作りたがる。境界の外側にいる人間を排除しようとする。しかし、隈にはそれがない。境界という概念すらないのかもしれない」

・僕は、建築と社会という境界がまず嫌いです。建築家だけが難しい議論をして、いい建築だ悪い建築だと議論する閉鎖的な態度がいやです。建築家も使い手も、作る人も、職人も、都会と田舎という境界も、国の境界というのも、物を作る行為の前では、まったく意味がない

・都会の中にも、光は降ってくるし、風は抜けるし、雨も降るし、お隣さんもいる

以下、紹介本のまとめ

西村 佳哲 『自分の仕事をつくる』
ブルーノ・タウト『日本美の再発見』
ブルーノ・タウト『忘れられた日本』
藤森照信『建築とは何か』
ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』
マックス・ウェイバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
隈研吾『建築的欲望の終焉』(1994年)
エンゲルス『住宅問題』(1873年)
景山春樹『神体山』
隈研吾『新・建築入門』
隈研吾『10宅論』
梅棹忠夫『サバンナの記録』
(梅棹さんの本の面白さは、場所を見る眼がフラットなこと。見おろすのでもなく、見上げるのでもなく、同じ高さでサバンナの人達の生活、人生を観察し、記録する。)
隈研吾『小さな建築』

「自分で始めなければ、何も起こらない」

創造の場所であるカフェ代のサポートを頂けると嬉しいです! 旅先で出会った料理、カフェ、空間、建築、熱帯植物を紹介していきます。 感性=知識×経験 மிக்க நன்றி