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ベトナムから学んだ10の人生の教訓

「なぜ、マミはベトナムが好きなのか」「どんな魅力があるのか」と、聞かれ、「好き」や「魅力」というのは、私にとっての感覚であり、周りの人びとがどう思うかはわからないけれど、一言でいうと「人間味がある」国だと思う。この国はどのようなメカニズムでまわっているのか、愛国心、危機管理、公共政策、社会主義、民主主義、SDGs、人々の原動力、モチベーション、心理、人間関係、家族・・・そんな好奇心からとても多くの教訓を得た国。

世の中は、理屈や理論があると便利。でも、何か大切なものを同時に失っていっている気もする。社会が急激に発達すると、より高度専門に、複雑になって人間味とエネルギーを失う。相対的に他人と比較して、不平不満を言うようになるものだ。

この国は、単純に、なぜ、面倒で不便で綺麗ではないのに、生きやすいのか?これは、得た教訓を自分で解釈しながら、数年で自分を変えていった物語の軌跡でもある。

1.人の良いところを見つけて、褒めて、「愛」を直接伝えること

この教訓が一番大きいかもしれない。単純にダイレクト・コミュニケーションというわけではなく、「愛を伝えること、伝えられること」と言っても良いのかもしれない。エネルギーと愛に満ちている環境。私自身は、毎日に「幸せ」を見出す星座でもあり、自由を何よりも大事にする性格であるが故に、とにかく自分のペースを邪魔されることがとても大きなストレスだった。必要以上に構ってほしくない。でも、ベトナムで、ホストファミリーと一緒に過ごし、ベトナム人と共に働き、完全に私が守りたい「自由」は、崩される一方で、なぜか「愛されること」「褒められること」にとてつもなく安らぎと幸せを感じた。この国は、この「愛」と「褒める」ことによって、活力を生み出しているのではないか。愛に報いようとしてみることも悪くはないのかもしれない。「目の前の相手を、どうやったら幸せにできるのか?」を考え、「情熱は、伝えていかなければ伝わらない」と学ぶ。当然意に反することも起こるかもしれない。傷付くこともあるかもしれない。でも、何よりも、自分がどう思うか。好きだと思ったら、素敵だと思ったら、とにかく伝えること。

ベトナム人の友人が、日本語のクラスで学んだ礼儀作法として「大したものではありませんが」と言いながらお土産を渡すのを真似ていて、とても複雑な気持ちになった。なぜ、自分が「大したものではない」と思うものを、他人に渡すのか?これは、自分を謙遜することと同じで、なぜ褒めてくれているのに、素直に喜ばないのか?素敵な言葉のプレゼントを受け取っているはずなのに。

私は「他人にも自分にも『美しい』を連発するあのベトナム人の国民性が大好きなんだけどな」とか思ってしまう。ベトナム人に最初「マミは美しい」と言われたときに、とにかく謙遜(というか自信の無さと、自尊心の低さから相手の好意を真に受け入れられないという典型的な日本人の例)とベトナム語力の無さで、何も言えなかったこともあったけれど、時を経て、ことあるごとに「美しい」を連発する人々だということを知り、なんだか面白くなったのと、ベトナム人の生き方そのものが、「なんだか、これが美しいんじゃないか」と思える程、自分からも周りの人々に対して「美しい」「ありがとう」が言えるようになっていった。

2.笑いのセンス 

「笑いのセンス」は国境を越えると思っていて、それも誰も傷つけないセンスというのは最強だと思う。誰に会っても、「毎日が文化祭」のように楽しむ性格と人生と、近所の駐車場のおっちゃんとか、バインミー売りのおばちゃんでも、笑いのセンスは抜群だった。とにかく話しかけやすい。年齢は、自分の祖母や祖父のような方々だけれど、共通することは未来に向かって今日を生きていることで、同じ世紀に生まれたことに感謝。

ただ同時に、ユーモアを理解して返すという「技」は、コミュニケーションを繰り返すしかないと思っていて、これは膨大なインプットと言語能力を要すると思っている。もちろん、言語に頼らないユーモアのセンスというのは存在するし、なんとか仲良くなれるけれど、次の「好奇心」にもつながる、いつまでも周りの人々と話そう、その人のことを知ろう、笑わせよう、という気持ちが大事な気がする。

3.好奇心を強くもつこと 

ベトナム人は、とにかく人に対する「好奇心」が強いと思う。そして、ある日のある時間に、あるお菓子のある種類のものを「おいしい」と一言、私が言ったことを、1年後にも覚えている。何を着ていたかとか、その時の髪型とか。自分が忘れた人々の名前や、ものや会話や髪型を全部覚えていて、すごい暗記力だなと感心したけれど、思えば自分が興味あったり、好奇心が旺盛だと、覚えようとするし、もっと知りたいと思うものだと思った。

人に対する「好奇心」が強いベトナム人だけれど、私はカフェやホテル、建築や熱帯植物などに対する「好奇心」が異様に強いので、そればかりはベトナム人にも関心された。そうやって、それぞれの「好き」を強化していけばいいのか、とも思った。でも、すぐに名前を覚えてくれるところとか、人に対する興味は、私も学ぶことが多くて、事あるごとに連絡をしたり、名前を呼んで「大事な存在」ということは伝えようとするようになったと思う。まだまだ勉強中。

4.主食(米と果物と野菜)が身近にある生活

これは、ベトナムの中でもメコンデルタがとりわけその環境にあって、市内には早朝から多様な果物や野菜が販売されている市場があって、少し足を運べば、広大な農地と果樹園がある。米の生産は、ベトナム全体の半分以上を占めていて、多くを輸出している。コロナ感染が増加したときも思ったけれど、何か緊急事態が起こったとき、何よりも食の安全保障は、国益にも関わるほど大事であり、自給自足の生活や主食が身近にある生活というのは、私自身の生活をシンプルで豊かにしてくれると思った。

キレイな海の景色は、目の保養になるけれど、私は、この茶褐色の川と限りなく広がる畑が、人生を豊かにしてくれる気がしている。

5.自然の摂理と哲学に従うこと

そして、上の教訓にもつながるけれど、孔子や儒教の影響もあって、かつ広大な自然の中での生活が身近にあると、洪水や塩害、大雨などの自然災害に対して、なんとか予防しよう、というよりも、いかに自然の摂理に沿って生活しようか、哲学を感じる。もちろん、災害を予測して予防して、対処していくことは大事だし、発展途上国の国々では、それが技術的にも予算的にもできなくて多大な被害が出ることも多い。ただ同時に、サバイバル精神というか、たぶん自然が一番知っていることを教えてくれる。このことは、日本の精神にも言われるけれど、自然を目の前にして、人間というものはいかに無力なのか、小さい愚かな存在なのか、という考えにも現れている気がする。

6.子もたちが幸せな環境を常に考えること

そして、自分自身が子どもを生み育てるかはまた別の話として、自分自身を、子どもたちの笑顔が広がる場所に身を置くことは大事だと学んだ。ここには、普通のカフェにも子どもたち用の遊び場があって、走り回っている。そこは、決して「静か」な場所ではないし、笑い声だけじゃなくて泣き叫んでいる光景や親と喧嘩している光景も見るけれど、とにかく、みんな好奇心旺盛で子ども時代を外で楽しんでいる。そういう環境が周りにあると、「家族は良いもんだ」と子どもの頃から学ぶ気がする。そして、私自身、想像力を高めるには、 「自らの未来の可能性」である 人々により多く出会うことが必要だと思っているから、そんな子どもたちが幸せな環境は、とても寛容であり、想像力が高まる気がしている。

7.大事なのは「今」を伝えること

日本ではよく、(あなたの将来に対して)「期待している」「楽しみにしている」と言われる。これは、全て時間軸が未来のどこか未知の空間。そこに、「今も現在進行形で頑張っている自分」の存在は、承認されずに、おいていかれる感覚。どこまで頑張れば良いのか?そんな、ふとした瞬間に感じる違和感。ベトナムでは、とにかく「今」の感情を伝えてくれる。「楽しい」「尊敬している」「元気で、生きている」その存在を認めてくれる。そうして、いつしか私も、久しぶりに会う友人たちにも、ベトナムに来るときに連絡してくれる人たちにも、「何をしているのか」という質問よりも、「どういう気持ちで生きているのか」という「生き方」を大事にするようになったと思う。その人が今幸せで健康なら、それで最高じゃないか、という「今」を大事に。将来は、誰にとってもわからない。

8.出身大学や企業名ではなく、目の前の人と向き合うこと

何でもない自分に、誇りを持てる場所とは、目の前の人と向き合う「余裕」と「空間」を与えてくれる。ベトナムは、世界でも著しく経済発展を遂げている国のひとつであるけれど、人間の心を忘れない。ある日、ベトナム人の記者の方が、ファムトリップでベトナムのカントー市に訪れた際に、人づてで私のことを聞き、興味を持ってくれたそうだ。私の上司へのインタビューを記事をベースにしたベトナム語の記事内容は、私の仕事内容はもちろんだけど、私がどれだけベトナムの生活が好きか、カントーでの観光局の仕事が好きか、常にエネルギーに満ち溢れていて、誰とでもすぐに打ち解けるか、どれほどベトナム料理が好きか、そんな、一人の人間のことをよく知っているベトナム人と、それに対して興味を持ってくれるベトナム人がいたからこそ、成り立った内容だった。

「人間として尊重されている」

このことは、私がベトナムで何度も感じたこと。数字を追うのではなく、ひとりの数値的成果を称えたりするだけじゃなく、ただそこにいる私の人生に、興味を持ってくれて、ストレートに聞いてくれる人々がいる。

「一緒に働いていて幸せだ」
「マミにベトナム語を教えていると、自分が学ぶことが多くて、この時間が好きだ」

これは、自己肯定感にもつながるし、予測不可能な社会に対する不安から、冒険心やポジティブ思考にも変えていける気がする。

日本で、例えば何かを成し遂げたときとか、目に見える行動を取ったときに、「マミはすごいね」と言われることがあって、それはそれで嬉しいけれど、どこか「自分はできないから」と距離を置かれている気がしていたけれど、ベトナムで似たような状況になったとき、ベトナム人からは「マミが友人で良かった」「私もこんな活動したよ」と、より一層エネルギーをもらう回答が多い。

9.世代関係無く同じコミュニケーション手段を持つ必要性

台湾のデジタル大臣でもあるオードリータン氏も言っていたけれど、「政府の役割は、国民に説明し、なぜ共に闘う必要があるのか、国民はどういう利益を得るのか、SNSを使い若者や弱者に寄り添うこと」であって、そのために世代関係無く同じコミュニケーションツールを共有する必要があると思っている。

ベトナムには、国民のほとんどが利用しているzaloと、Facebook messangerがあり、コロナ禍の特に一番緊急なときにこのコミュニケーションツールは大きな威力を発揮した。地域の特に貧しい人々に対する緊急支援や、ゼロドン・マーケット(無料で農作物を提供するコミュニティマーケット)の発想は、すべてSNSから発信されていた。ここにいると、日本や西欧社会が、何かにつけ理論や仮説検証を行って実証しているものを、実は自然に、ずっと前から知恵として営なわれていると感じる。それも、とても速いスピードで。正解は誰にもわからない。

10.「不可実性の回避」が非常に低いベトナムと非常に高い日本

異文化理解のフレームワークとして、「ホフステードの6次元モデル」というのがあって、その中でも面白いのが「不確実性の回避」という考え方だ。

不確実性の回避:ある文化の成員が不確実な、未知の状況に対して不安を感じ、それを避けるために信仰や制度を形成している程度」

で、これが特に高い日本と、低いベトナム。日本は、予測不可能な状況に対して、不安や脅威を覚えるのだ。そういった国々では、人々はなんとか「正しい答え」を求めようとし、構造化された社会ができる。

どちらが「良い」か、というよりも、ベトナムの「肌感覚」「スピード」感が自分に合っている。それだけだと思うけれど、この自分が生まれた国とは異なる東南アジアの国からは教訓が多い。

「スピード」を重視すること。正直、昨日正解だったものが、今日になればまったく通用しないことだってあると思っていて、これは外資系企業に勤めていたときも、ベトナムでもそうだけれど、とにかくやってみて、もし違うのであれば、すぐ修正できるような機動性と柔軟性も持っておくこと。

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そうだ。私たちの人生は、我慢して謙遜して生きるほど、長くはないのだ。
「自信過剰になるな」、「うぬぼれるな」と言われた国を出て、エネルギーと愛に溢れた国に身を置くことで、自分を卑下することは、自分も他人も傷付けているということを知った。

10年前の自分に伝えられることがあるとすれば、以下を伝えたい。

・大抵の大人の言うことは聞くな
・助けを求める相手を見誤るな(仕事では、交渉相手を見誤るな)
・多くのコミュニティを持て
・常に現場を大事にせよ 自分の直観はだいたい当たっている
・今いる場所だけが、自分の生きる場所ではない
・「自信をもて」じゃなくて「自分を信じろ」という人を信じて

「努力は報われない」こともある。他人にイライラするのは、あなたが我慢していることを他人がやっているから。

他人の迷惑にならないこと、他人の期待に応えること、他人の役に立つことに必死で、それでも空振りしいて、自分よりも「他人」を優先する、本当は、すごく優しい人のはずなのに、正義感が強くて、潰れる。自分にもっと「わがまま」で良いのか、人に頼る、頼む、丸投げするのでも、何とかなるものなのか。「自分はどうしたら心地よいのか」「自分は何が好きなのか」「自分は何をしたいのか」それらを突き詰める人生でいいのか。

哲学者のマルクス・ガブリエル氏が「日本人は、『許すこと』を学んだほうがいい」と言っていた。同調圧力に関して、日本と出身国であるドイツには類似点があるとしたうえで。

「承認」を求めて、死ぬまで戦う社会。
心の不安を乗り越えるために「他者は自分たちのようではない」と知るべき

他者とは、相手が自分と同じでなくても許すことをあなたが常に学ばなければならない、そんな存在です。それでいいのです。私たちが他者に「こうであってほしい」と望むのはまったくかまわないと私は考えています。それが私たち人間ですから。私たちは自分のしていることがいいと思っている、だから当然、他の人にも自分たちのようであってほしいと望みます。しかし加えて、他者が自分たちのようではないことを知って、それを許すレイヤー(層)が必要なのです。

私自身の性格は、心理学でも「規格外」だといわれた。
「美しさや面白さを理解せず、正しさや常識だけを押し付けてくる人」と付き合うとストレスを抱え、まったく関係ない分野から自分の本業の知恵に結びつけたり、ほかの人が想像もつかなかった点と点を線で結び付けたりすることができるオリジナルを大事にする。だからこそ、「それは正しくないよ」とか「それでやっていけると思っているの」など、そういう枠で定められた常識や考え方に自分が閉じこめられることに対してうんざりしてしまうときがあるし「あ、この人に話してもわからないだろうな」という人に対しては対話をすることを諦める。「全員には理解されないだろうから、自分のペースで好きにやっていよう」という気持ちで、あなたは人と少しだけ距離をとって、平和な気持ちを保つために自分なりの努力していることが多い。

でも、たぶん、答えはもう知っているんだと思う。

「かくも短き人生に、争い、謝罪し、傷心して、責任を追及している時間は無い。愛し合うための時間しなかい。それが、たとえ一瞬にしかすぎなくても、良い人生は、良い人間関係で築かれる」by Mark Twain 

”There isn't time, so brief is life, for bickerings, apologies, heartburnings, callings to account. There is only time for loving, and but an instant, so to speak, for that.” By Mark Twain 

ハーバード大学80年間724人追跡調査でも、人生最大の幸福をもたらすものの回答として「私達を健康に幸福にするのは、良い人間関係に尽きる」と出していた。

これは、私にとっての人生の教訓となった話だけれど、なるべく自分自身の社会と国民性というものも含めて客観的に見るようにした。そして一番重要なのは、自分といかに向き合っていくか、に尽きると思う。

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