見出し画像

ハイデガーの『技術論』からAIが人間に対して脅威とはならないことを解説する

はじめに

マルティン・ハイデガーの思想を知ろうとしてインターネットで検索してもあまりその内容が出てこないので、間違っていることがあるという前提で、誤解を恐れず書いていくことにした。また、日本においては学生でも社会人でも論述試験において満点とされるレベルはハイデガーの思想を理解していることにある。これは実際の試験作成者複数名から裏付けを取れているので間違いない内容である。逆から説明すると、現代思想は理解するにあたりノーベル賞受賞者でも誤解して当人や最前線の研究者から否定されることがあり、日本の学術界でも真に理解している学者は最高権威と認定されるので試験内容としては採点者の理解の及ばないところとなるからである。それ故に、一般的な知識レベルでは近代思想の理解で十分なのである。いきなり『技術論』から入っているが、本来的にはハイデガーの『世界像の時代』から入るのが分かりやすいのは間違いないが、話題性としてあえて『技術論』から入ることとしている。繰り返しになるが、個人的な解釈における文脈の真偽は保証できないが、ハイデガーの原著の翻訳に関してはほぼ間違いはない。とはいえ、何かしらの論述試験の切り込み方としては満点の内容である(その内容は別として…)。

AIは人類の脅威となりえない

今日OpenAIのGhatGPTなどのAIにおける大規模言語モデルの登場によって特別な知識がなくてもAIを操ることが可能となった。様々な制限はあるものの、従来のAI及び科学技術を革新させるイノベーションであり、AIによる人類への存亡や存在価値に対して問題提起されているが、すでに過去の(と言っても20世紀なので割りと最近ではあるのだが)哲学者によって科学技術における人間と機械の違いは定義づけられており、また、過去の歴史における産業革命時にも同じような問題提起が行われた為、AIに対する危機感は杞憂となるものであるが、あたかも新説かのようにAIへの懸念を表明するのはある意味において間違い(※注意:全てではない)なので、近現代で科学技術が何たるものかを定義づけた哲学者の世界観を知ることは重要である。我が国においては、その思想の表象的な部分だけは義務教育で学べるように文科省が策定しているが、何故その考え方が重要なのかは解説書ではその著者の解釈に基づく偏見や誤解も招くし、ハイデガーの原著を原文で読解することは小中学校ではかなり難易度が高いので、とりあえずその考え方だけは教えようとするものであろう。

Ⅰ.『技術論』の構成とその内容

本noteはハイデガーの『技術論』の原著を原文で読解してその内容を解説するものである。その為、翻訳に当たっては文脈の前後関係から日本語訳にしていることを付け加えておく。したがって、一般的な解説書や参考書と用語が違う点を予め明記しておきたい(本来原著のドイツ語をそのまま日本語に正確かつ包括的に翻訳するのは困難を極める。なぜなら日本語に『技術論』で説明される概念に相当する言葉がないからである)また、非科学的な陰謀論や似非科学を排斥していることにも留意した。この種の理論は「陰謀論を完全否定する」というnoteにて述べているのでそちらを参考にされれば幸いである。
 
前置きが長くなったが、AIの進化によって人類の存在価値が脅かされるのではないかという不安はすでに過去の思想家によって問題解決がなされている。それはハイデガーの『技術論』で科学技術とは何か?という問いかけを追うことで明らかになるであろう。
 
まず、『技術論』の構成であるが大きく分けて二部構成からなっている。第一章は「技術への問い」、第二章は「転向」と題されており、共にハイデガーの講演を収録したものである。説明を行うにあたって、ここでは『技術論』に対する可能な限り客観的な解釈を述べていこうと思っている。とはいえ、直接原著を読解しているため書店で売られている解説書と説明と食い違いところがあるのはご容赦願いたい。あれはあれで全て正解というわけでもないのであるが、いずれにせよ解説書や参考書の解釈はその著者の個人的解釈となるので、現代思想に矛盾しない翻訳が必要とされる。それはさておき、『技術論』の中でキーワードとなっている概念で、その中でも特に「露わに発く」ことについて考えてみたい。この概念は、原著の全体を通して科学技術の本性に関わるものとして繰り返し説明されているからである。


Ⅱ.『技術論』における通俗概念

さて、第一章の「技術への問い」であるが、これは『技術論』のなかで最も多くのページ数で書かれていてその比率も高いことから、この著書における主内容を成していると言うことができる。ここで問題にされているのは、技術そのものについてであることは言うまでもないが、特に注目すべき概念のひとつとして「露わに発く」がある。原著に則して考えると、この概念は次のように言うことができる。
 
技術について問うということは、技術とは何であるかと問うことである。この問いに対して二通りの答えがある。一つは、技術は目的のための手段であること。もう一つは、技術とは人間の行為であること。この二つの規定はともどもに一体をなしているものである。なぜなら、目的を定め、そのために手段を手に入れたり使ったりすることは、人間の行為であるからである。

技術が手段であると同時に人間の行為であるとみなされている一半の通念は、それゆえ技術の機具的・人間学的な規定だということができる。技術の本性に到達するためには、手段や目的といった事柄が何に帰属するのかということを明らかにしなければならない。つまり、機具的なものとは何かということである。これからはすべて、ポイシエスであり出で-来-たらすことである。出で-来-たらすこと(das von-sich-her-Aufgehen)は、未だ事割られざるもの〔蔽われているもの〕が事割られたるもの〔蔽われていないもの〕へ到る限りにおいて、現れ起こることである。私たちはそれを「真理」(Wahrheit)と言っているが、普段はその言葉を表象の正当さ(Richtigkeit)と解している。ところで、露わに発くことのなかに、出で-来-たらすことは悉く、その根拠を持っているので、全面的に技術の本性と関係がある。出で-来-たらすことは、誘い-出す四つのあり方―因果性―を自らのうちに纏め、しかも絶えずそれらを統べているのである。この因果性の領域に、目的と手段が属し、したがって機具的なものも属している。手段として考えられている技術が本来何であるか一歩一歩問うていくと、発露のところに辿り着く。この露わに発くことの中に、すべての(職人による)製作の仕上げの可能性があるのである。ゆえに、技術は露わに発くひとつの在り方である。このことに注意すると、それが真理の領域であることが見えてくる。
 
まだ、この段階では近代技術について触れられてはいないが、少なくとも技術の本性が発露に関係することが明らかとなった。これは存在者の存在と関係があるものと解釈可能である。なぜなら、この露わに発くことも現存在を介してしか発生し得ないと考えられるからである。その意味で、現存在たる人間によって生み出される知識めいた着想と、この露わに発くことは類似点がある。それが内的に生起しうるという意味においてである。しかし、決定的に違うことはそれらが実存しえるかどうかということである。つまり、ここでは古代ギリシアの四因説のおける因果関係の領域の中で、すなわち機具的に惹き起こされていなければならない。
 
ここでは古代ギリシアの四因説の根拠を問うことで機具的なものの通俗規定を導き出そうとしている。原著の結論によると、それらは未だ現存していないものを現存へ到来させるので、したがってそれらは、現存するものを明るみに持ち来たす、一種の持ち来たしによって、統一的に絶えず統べられているのということである。
 
もっと分かりやすく誤解を恐れずに解説するならば、現存在たる人間の意識の中で生起される一連の着想は、科学的に検証される以前には、意識に言語を用いて思考する人間にしかなし得ない技である。そこには何も科学的な制限がないので、科学技術を拠り所とするAIには不可侵の領域であるといえる。


Ⅲ.科学技術における自然への挑発

ところで、上記のような技術の規定は近代技術には当てはまらない。原著によると、それは近代技術のなかで統べている露わな発きとは自然のエネルギーに対する挑発だからだそうだ。近代技術も露わに発くことであるが、それは上記に述べられた古代ギリシアの四因説とは異なった種である。
 
近代技術を隅々まで支配している露わな発きは、挑発の意味において立たせるという性格をもっている。露わに発くことは、自分の独自な、さまざまにかみ合っているあまたな道を、自ら制御することによって、自分自身を露わにするのである。この制御までが自分の側で、あらゆる点で確保されるのである。制御と確保はまさに、挑発してゆく露わな発きの主たる特性にさえ成っていくのである。こうした挑発し立たせてくことによって成就していくことがらは、どこまでも役立ちのために立つように、しかも次の仕立ててのために、自分で用意して立っているように、仕立てられるのである。そのように仕立てられるものは、自分独自の立つ座をもっている。私たちはそれを役立つものと呼んでいる。
 
この言葉は、今は一つの称号の資格を帯びている。この称号はまさしく、挑発してゆく露わな発きに襲われるあらゆるものに現存するあり方をちょうど指しているのである。現実と呼ばれているものを、役立つものとして露わに発くように、挑発しつつ立たせるということを遂行するのは人間である。ただし、その露わな発きは、自然エネルギーを搬出するように挑発されている限りにおいてのみ生起しうる。なぜなら、もし、人間がかのごとく挑発され、仕立てられているものなら、実に人間こそ自然よりもさらに根源的に、役立つものに属しているものになるからである。人間は自然エネルギーよりもさらに根源的に、ここでいう仕立て向かって挑発されているが故にこそ、決して単なる役立つものになることはない。人間は技術に携わることによって、露わに発く一在り方としての仕立てに参加するのである。しかし、仕立てるということがその内部で展開されるところの理そのものは、決して人間の拵え物ではない。以上のように、近代技術は、仕立てゆく発露として、決して単なる人間的行為ではない。だから私たちは、現実を役立つものとして仕立てるように、人間を立たせる挑発をも、それを自らを示すがままに受け取らなければならない。その挑発が、人間を仕立ての中に纏めて行くのである。この纏めてゆくものが、現実を役立つものとして仕立てるように、人間を集中させるのである。
 
近代技術において露わに発くことは自然に対する挑発によって自分自身を露わにすることであり、必ずしも人間の行為であるとは言えない。Ⅱでは、その技術は職人に属しているものであったので人間による行為といえたが、近代技術では機械がそれの代わりとなりえる。その挑発が、現実を役立つものとして人間を仕立ての中に纏めていくのである。しかし、人間は機械とは違って、根源的により仕立てに向かって参加するので、決して単なる役立つものとして終始することはない。
 
この機械と人間の差は、人間が現存在であるからこそ言える。確かに、機械と人間は(近現代技術においてその効率の差は大きいが)仕立てに向かって挑発されるが、機械のみではその挑発のより根源的なところで生起しえない。なぜなら、機械には露わに発くように挑発されないからだ。これは、人間を介してしか存在者を理解できないことと似ている。機械は自然エネルギーを制御しえるが、人間が与えた仕事の範疇でしか挑発されないからだ。逆に、人間は機械によって自然が挑発されることも支配している。存在者としての機械は、現存在たる人間によらなければ機械として成立すらしえないからである。
 
この意味においても、「露わに発く」ことは人間の意識、すなわち内的に生起するもので、尚且つ実存するものであると言えるのである。単なる観念ではなく、現実に役立つものとして、実存しなければならないのである。原著においても、「露わに発く」ことが何処で生起するのかという問いに対して、少なくとも人間の意識のなかで意識に制御されることなく現れやって来るものであると解釈可能である。

Ⅳ.まとめ

以上のように、露わに発くものに対して、それが内的なもので実存しえるものという解釈が与えられうる。機械は実存しえるものではないので、その範疇にあるAIも同様に扱うことができる。機械によるいかなる効率化も現存在たる人間なしには存在しえないので、産業革命期に対する機械の圧倒的効率によって人間の存在価値が損なわれるのではないかという懸念も、誤解を招くかもしれないが、単純に効率化の極みと解釈すればAIも現存在たる人間なしには存在しえないのである。
 
これは直感や連想に似ているが、役に立つという形で実存しなければならない。そして、それらは近代技術においては機械によって挑発される。また「露わに発く」とは既存の翻訳書や参考書とは違う用語となっている。あえて原著のどこを指しているのかも明示しない。あくまでこのnoteはハイデガーの『技術論』に関する理解(誤解)を手助けするものであり、単純に原著を客観的読解によって理解するとこうなるという一例である。少なくとも翻訳に関しては、文法的間違いはないことは確認済みなのでご安心願いたいが、「露わに発く」は辞書通りのそのままの翻訳である。ハイデガーの『技術論』を論説するにはこの言葉だけをもって解釈するのではなく、原著のドイツ語をドイツ語のニュアンスで解釈されるべきである。
 
日本語訳での解釈が困難なところはハイデガーが論説する概念に相当する用語が日本語には存在しない点である。その意味合いにおいては全ての日本語の解説書や参考書も読者を誤解させる内容をはらんでいる(本noteも例外ではない)が、その言葉が日本語には存在しないのでそこを直接的に誤解なく表現するならば原著のドイツ語をそのまま書いて注釈として通俗的な解釈を行うのが妥当であろう。

参考情報:大規模言語モデルChatGPT4による解説

ハイデガーの『技術論』は、哲学者マルティン・ハイデガーが技術とその本質について考察した著作です。分かりやすく説明するために、重要な概念を簡潔にまとめてみました。

1.技術とは何か?

ハイデガーは、技術を単なる道具や機械ではなく、人間が自然を支配し、資源を利用するための方法や思考の仕方と捉えています。

2.技術の本質

彼は、技術の本質を「立ち現れるもの(抽象的な存在や現象)が現れる仕方」として捉えています。これは、技術がどのように世界と人間との関係を変えているかを説明するための考え方です。

3.古代技術 vs 現代技術

ハイデガーは技術を古代技術と現代技術に分けて考察します。

古代技術は、自然と調和し、人間が自然の一部として生活するのに役立つ技術です。例えば、農業や手工業がそれにあたります。この技術では、自然の力を利用しながら、自然と共存することが重要視されていました。

一方、現代技術は、自然を支配し、資源を効率的に利用することを目的とした技術です。工業化や大量生産が代表的な例です。現代技術では、自然が「立ち現れるもの」として扱われ、人間は自然を制御しようとする立場になります。

4.問題点

ハイデガーは、現代技術がもたらす問題を指摘しています。彼は、現代技術が自然をただの資源として扱い、無限に利用しようとする姿勢が、環境破壊や人間の精神的な危機を引き起こすと主張します。自然や他の生き物との共存を忘れた現代技術は、人間の営みだけを優先し、結果として地球全体のバランスを破壊してしまう可能性があると彼は警告しています。

5.解決策

ハイデガーは、技術の問題を解決するために、技術そのものを否定するのではなく、技術に対する人間の考え方やアプローチを変えることが必要だと提案します。現代技術を利用しながらも、自然との調和や共存を大切にする新しい技術観念を開発することが重要だと彼は考えています。これには、自然や他の生命体を尊重し、持続可能な開発や環境保護に配慮した技術の選択や実践が求められます。

6.まとめ

まとめると、ハイデガーの『技術論』では、技術が人間と自然の関係をどのように変えているかを考察し、現代技術がもたらす問題点と、それに対処するための考え方を提案しています。彼の議論は、現代社会での環境問題や持続可能性について考える上で、重要な洞察を与えてくれます。ハイデガーの技術論は、私たちが技術の利用に対してどのような態度を持つべきか、そして自然とどのような関係を築いていくべきかという問いを投げかけています。そのため、彼の考え方は、今日の持続可能性や環境問題を理解するための一つの視点として参考になることでしょう。

私たちは、ハイデガーの提案する技術の在り方や人間と自然との関係性を学び、現代社会での技術の利用や環境保護について考えるきっかけを得ることができます。このような理解を通じて、私たち一人ひとりが環境に優しい技術や持続可能な生活様式を選択し、自然と共存する未来を築いていくことが求められます。ハイデガーの『技術論』は、私たちが現代社会で直面する環境問題や持続可能性の課題に対して、より深い理解を持ち、自分自身の行動や選択について考える機会を与えてくれます。

最終的に、ハイデガーの技術論は、技術を単なる道具や機械としてではなく、人間と自然との関係を形成する方法や思考の仕方と捉えている点で、現代社会においても重要な意義を持っています。私たちが彼の議論から学ぶことで、技術と自然との調和を目指し、持続可能な未来へと向かうことができるでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?