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ダンス『風の又三郎』勅使川原三郎・演出振付/フラッシュメモリー20220903

ダンサーたちをシルエットにして、ホリゾントの青空が、抜けるように明るい。青空を逆の光にダンサーたちは軟らかい影となる。けれど凛とした空気が場を立たせる。床を足で打つダンサーたち、ざくざくざく、だんだんだん、音は響いて風になる。又三郎の風の気配がたち起きる…音が舞台を駆けていく。…又三郎が吹かせる風、いろいろに…窓ガラスを鳴らす風、草を波立たせる風、林を吠える風…ふっと一人が隊列を離れて飛び出した。ダンサーたちは『風の又三郎』…その吹く風そのものになる。足音には草原の匂いもする…音、匂い。草…風…なびいていく空気。夕暮れの青空がダンサーたちをさらに深い影法師にする。色彩のある影法師…オーディションで集まった少女/女性たちの凛とした[気]がしだいに空気に浸透していく。温度は初秋、少し空気が冷えてきた。青空がさらに秋色に変わる。

九月一日
どっどど どどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいくぁりんもふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

谷川の岸に小さな小学校がありました。
教室はたったひとつでしたが生徒は一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらゐでしたがすぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし、運動場の隅にはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。

小説の一行目は全体のできを反映する。『風の又三郎』は小説ではないかもしれない、が、冒頭にすべてある。仙台出身の僕の母親は、祖父に買ってもらったという『風の又三郎』を開いては、どっどど  どどうどと歌いながら幼児の僕に読み聞かせをした。たしかすっぱいりんごと歌っていたと記憶する。風の音もちょっと違っていた。母はページを捲らないまま『風の又三郎』を朗読していた。母親の東北、母親の賢治、母親の『風の又三郎』。冒頭の部分だけの僕の幼少の『風の又三郎』。30年ほど前、勅使川原の踊りを見て『風の又三郎』を読んだ。それは母親の三郎とはだいぶ違っていた。勅使川原の又三郎は、勅使川原の三郎だけれど、誰よりも読み込んだ三郎…。深く賢治に立ち入っている。僕はいま、勅使川原三郎の又三郎を読んでいる。

ダンサーの登場____素敵な小説の一行目と同じように、(ダンスの幕開きも全体を象徴する)素敵な舞台の確信…そして今まで見たことのない勅使川原の[又三郎]に会える…予感がする。少女たちのシルエットに、足音に、影に、青空に…。そしてこの日、ラストまで不思議な空気は持続され、舞台の集中度は切れることなく彼女たちは一気に季節を跨ぎ終えた。
青空に影。風が吹いていても、吹いているのを感じても音はしない。会場に効果音のかざおとは、流れているのに、舞台に音はしない。高圧で耳が圧迫されて無音になっているような…。風が吹いているのに少年たちの心はしんとしている。しいんとなって又三郎を観察する。意識を残したまま夢を見ている。意識はクリアーにダンサーとともにある。総天然色の無声映画。投影される映画の前でダンサーが踊る、踊る軌跡が影になって風景に記憶される。風に紛れる。だんだんだん。足音は響く。でもやっぱり音はこない。遠くで足音がしているという存在感だけがある。呆然と季節の変わるのを眼を見開いて、紅彩に舞台の光を一杯に入れて見続けた。

選ばれたダンサー/彼女たちは、『風の又三郎』の少年/子供たちを踊る。少女であり少年。そして圧倒的に子供であることを表現するダンサーたち。彼女たちの[ふり]は時々、背伸びした大人の仕草であり、また子供の精いっぱい自己を主張したりの態度だったりする。彼女たちティーンは、子供から大人になる季節とまた重なってもいる。勅使川原三郎は、長いこと宮沢賢治を踊ってきた。振り付けてきた。作品にしていた。ここにあの当時の勅使川原三郎はいない。子供たちの、子供たちの目線の、感覚の『風の又三郎』。今の子がその感覚をもっているか?わからないけれど…勅使川原は伝えたかったんだと思う。失われつつある感覚を。子供たちは未来。だから未来を振り付ける勅使川原。

宮沢賢治の『風の又三郎』には、大人の要素が少しある、強くて怖い大人たちもでてくる。風の又三郎と呼ばれる高田三郎のお父さんもでてくる…たしか授業参観の場面だったか…。でもこの舞台に大人役はいない。大人はいない。発破をかけて魚をとる変に鼻のとがった大人も書かれているが、子どものような仕草で振り付けられている。ダンス『風の又三郎』(愛知県芸術劇場)は、子供たちだけの風景。こどもたちだけの又三郎。先生だけが大人の人だ。勅使川原三郎は、子供たちの視線でみた『風の又三郎』を演出/振付している。登場人物の男の子たちを演じているのは、オーディションで集まってきた少女/女性たち…彼女たちが少年の役を踊っている。少女であり少年。圧倒的に子供であることを表現するダンサーたち。彼女たちの[ふり]は時々、背伸びした大人の仕草であり、また子供の精いっぱい自己を主張したりの[態]だったりする。彼女たちティーンは、子供から大人になる季節の変わり目にいる。その時にしかない感覚、瑞々しさ、一途さ…それを宮沢賢治『風の又三郎』の物語の一過性にコレスポンダンス(万物照応)させている。『風の又三郎』は、8月の末から9月の上旬への10日ほどの物語。季節が激変する短い間の変貌。それが風というモチーフとともに描かれている。風と一体化し、あるいははぐらかされて…自然というものに向き合う術を自ずと獲得していく_____そんな子供たち。宮沢賢治は、学校の先生。先生の視点で子供たちを見ている。子供たちも風も自然の賢治は先生として見ている。勅使川原三郎は子供として、体感する身体で森羅万象に向かう。

勅使川原三郎の中には何人もの人がいる。アパラタスでシュルツを踊ったとき、アフタートークで3時間勅使川原三郎と話した。「ところで頭の中に何人いるの?」と聞くと(3人までは知っている)10人いると。そして舞台でそれぞれに踊って見せた。馬に乗った人も踊ってくれた。今聞いてみたいのは、風の又三郎は何人いるの?と、最低3人は見たことがある。たぶんびっくりするぐらいの人数を答えるのだろう。

ところで、この舞台に嘉助が草はらに倒れて寝るシーンがある。原作では…。

火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はたうとう草の中に倒れてねむってしまひました。
そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
もう又三郎がすぐ眼の前に足を投げだしてだまって空を見あげてゐるのです。いつかいつもの鼠いろの上着の上のガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。又三郎の影はまた青く草に落ちてゐます。そして風がどんどんどんどん吹いてゐるのです。又三郎は笑ひもしなければ物も云いません。ただただ小さな唇を強さうにきっと結んだまま黙ってそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。ふと嘉助は眼をひらきました。灰いろの霧が速く速く飛んでゐます。

寝ていた嘉助が起きる。又三郎はいない。

この又三郎を僕は知っている。今から三十数年前…蒼く黒い勅使川原は身体からガラスの破片を生やして、インダストリアルに踊っていた。モダン、ハイカラの宮沢賢治を…。タービンとか…。あの勅使川原は、風の又三郎だったのかもしれない。都市が崩壊していくいく季節に、そのインフラを抉り出しエッジを立てて磨いた美しさにして、未来を見て描いていた勅使川原三郎。崩壊と廃虚に懐かしさを見る当時の流行の中で、その都市の廃虚の地下にあるハードな物質を一身に踊っていた。物質性をポエジーにしていた。物質の未来。それを今にしてふと思ってみたりもする。きっと彼は今も身体にもっている。今日見せてもらった又三郎は、少年の、未来の、新物質の又三郎。今までに見たことのない…又三郎だけれど、きっと工場の機械音で踊る又三郎もいる。

『風の又三郎』の舞台照明は…顔に当たらない。それは個人性、スター性、天才性を重んじたモダンを否定しているからだろう。モダンでないこと、それは勅使川原三郎が行ってきたことだ。モダンアートではないのだ。コンテンポラリーアートなのだ。身体の動きが表情であり貌。群舞が風、そして風の又三郎。風の又三郎のパンフレットに配役は書かれていない。嘉助の役が、一郎の役が、次の日、誰かと変わっていても分からない…勅使川原がある日嘉助を踊る。振りが違う、動きが違う。それでも群舞は動いていく。全部で一人、一人が全部。役を演じたり踊るのではなく、物語のある要素、ある視点を踊るのだ。全員で…。かつ一人が全体に責任をもって。部分が全部という話は聞くが、一人が全員という踊りはなかなか難しい。ここでは、嘉助とか一郎とか、又三郎とか、誰かを演じる、誰かになる…ということより、まず、風になることが推進されている。風の又三郎の風、東北の夏の終りから秋にかけて季節が変わる…その自然と、自然を受け止める体と、そこを流れる、さまざまな貌をした風を描く。風になる。風にのる…。そんなことを優先する。だから影、だから青空。そこに風が吹く。
時代を作った踊り手は、パフォーマーたちは、年をとって、枯れることを一つの理想にする。『風姿花伝』の呪縛なのか。侘びも寂もよかろう。しかし勅使川原にそれはいらない。時代も違うのだ。ふと思う。これは勅使川原の[風姿花伝]の一章なのでは。風姿花伝____まさに風の姿、風の花。風花…勅使川原三郎は、ずっとずっと風を踊ってきた。風の姿を感じさせてきた。この舞台でも少女/少年たちは、いろいろな貌の肌合いの風を吹かせてきた。そこに巻かれてくるくる廻って見せた。失われつつあるダンスの舞台での風の認知力。身体にはまだ認知力は眠っているはず。勅使川原三郎の未来へ向けたダンス/願望の一ページ。

舞台を見てから一週間、列島の近くで突然、颱風になった低気圧が荒れ狂い、そしてふと雨の隙間に秋の空を見せたとき、この風景の静謐さの分けを悟った。茜空に無音の陰となって踊っている少年たちは、勅使川原三郎の見せる彼方の世界だと…。宮沢賢治の見た少年たちは、今も、彼方で踊り続けている。勅使川原三郎の少年たちもまた、影絵となってずっとずっと踊っているのだ。

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