『薔薇色の脚』中川多理人形作品集/出版と展覧会について
世の中の解禁ムードとは別にコロナは、深く社会を蝕んでいる。これまで罹っていなかった用心深い人たちも次々にコロナになり、かく云う私も遂にコロナに罹った。熱と咳と頭痛で七転八倒する日がけっこう続いた。元々頭痛に弱いせいもあるが、コロナの頭痛は未体験のもので頭が割れるとはこういうことを云うのかと、後でしみじみ思った。頭痛で浅い眠りが破れ、うとうとする夢の中での思考は、覚醒時のそれに何にも繋がらず、逆に自分を絶望的な気分に追い落とした。遂にコロナ…じゃなくて[終にコロナ]にならなくて良かったと。歳をとってくると、昏い世界へ直結する危険性も紙一重に孕んでいて、なおかつ後遺症に苦しむ可能性も高い。二ヶ月たっても残っている。
コロナは社会も個人も停滞させる。ロシアの侵略戦争は止まらない。どんどん人が死んでいく。死は戦争と疫病——そしてその影響による社会停滞や貧困の増加はとめどなく…グローバル・コンプレックスの中では、ウクライナも日本に隣接しているのと同じで、破壊、崩壊、停止という段階が見えている。
こんなご時世だから活動出来なくてもしかたがないよね、しなくても良いよね…と、自分への言い訳をしながらクリエイティブも滞っていく。メディアも機能不全に陥っていく。
ところで、中川多理は、この状況下でビスクという新しいメディアを使って創作をはじめていた。
白堊のPassage(パッサージュ)
過去と未来——[時の肖像]
展覧会タイトルは、おそらくビスクの肌理、光透く白——そして、時の廻廊のイメージ。
粘土からビスクへと大きな旋回をして…だから従来の手法も放棄するわけではない…中川多理の新規ステージの風景が展覧会でお目見えする。見るまでは何も語れない。もちろん。
ひとつ、予感的に分かるのは、素材を変えてのスタ-トだから、人形にたちむかう姿勢、人形の原点を見ることができるかもしれない。素材と人形の関係を実験し、検討して創造される人形には、初々しさと原点を感じさせる[人形そのもの]である可能性がある。あくまでも可能性だが…。
中川多理は、成功をなぞらない珍しい作家である。もっと云えば自分の作品をなぞれない、なぞりたくない作家なのかも知れない。だから一つずつの創作にその個体独特のモチベーションを必要とする。人形は、姿を変え、本質を変え、その時々の造る欲望を反映した人形となる。同じ人形はないのだ。だから、クロノスの直線の上に彼女の人形はいない。時、うつろう廻廊の部屋にそれぞれとして棲んでいる。それがパッサージュの意味するところだろう。
写真集『薔薇色の脚』/中川多理
❖書き下ろし掌篇 山尾悠子「小鳥たち、風のなかの」
解説・中川多理/解説[書下ろし]❖ 清水良典/金原瑞人/川野芽生
まず『夢の棲む街』で作品を作りたいという中川多理の願いがあり、それからだいぶの時がたち、掌編『小鳥たち』に向けて、フライングのようにして人形を作ったことから山尾悠子と中川多理の交流がはじまった…交換日記のような、小説創作と人形創作のコラボレーションは、『小鳥たち』『夢の棲む街』と、小説の時代を遡るようにどんどん進み、今、一つの大きな完結と云えるような場を迎えた。
二十歳の山尾悠子が書いた伝説の『夢の棲む街』を、22年3月に新装再販させてもらったが、驚きは、解説の川野芽生、人形の中川多理の存在を想定して書かれたのでないかと思うほどの、現代性をもっているということだった。(読むのと出版するのとでは小説の受け取り方も変わる)二人の作はぴったりと新装版に嵌まって、今に書かれたかのような瑞々しさをもっていた。
幻想のあり様が、いまの読み手にの腑にも落ちるのではないかと、それは山尾悠子の身体を崩壊させる/無為にする言葉の使い方と関係があるような気がする。が、それはここで述べることではない。いずれにしろ、『夢の棲む街』は、今、幻想の専門的読み手だけではない支持を集めていると思う。
一方、元々、鳥の作を多くものにしてきた中川多理——[小鳥]のモチーフを得て、手はしだいに縦横無尽の自由さを発揮するようになり、時に、老大公の顰蹙をかうような子も生み出していく。それが鳥なのであり、中川多理なのでもあるが、僕は、その子たちを秘かに[ハグレ]と名づけていとおしんでいる。
人形は、やはり人形ならではで…不思議な現象を引き起こす。作家がこの子いち押しと囁くことがある。僕も同じくと応じたりもする。余りやってはいけない行為…。なぜなら押すとかなりの割合で売れ残るのである。声に出して[オシ]を云うと、ほぼほぼ[ハグレ]になる。なので現場ではどの子がいち押しとあまり語らないようにしている。
[ハグレ]は別の廻廊を使って別世界に行くこともあれば、秘する地下室に生息することもある。そうそう、薔薇色の脚たちにも[ハグレ]はいる。漏斗の劇場をどこまでも登っていきその縁から飛翔して消えた子や、誰の目にも触れない地下隧道を見つけて逃走しそこで増殖した子たちもいる。彼女はなぜかポワントを盗み取って逃げた。地下劇場には、また別の舞踏フェスティバルが開かれたとも聞く。逸脱する子たちは、また別のいとおしさがある。人形はそもそもは手の裡におさまるものだが、創作人形は、逸脱が本領だ。人形の枠ぎりぎりを守りながら限りなく逸脱を繰り返し、時代の、そして見たことのない新しい類型を生み出していく。
人形は作家の手元にもギャラリーの手元に残らず、人の手に渡るという形で飛翔して消える。そして小鳥たちも薔薇色の脚たちも、同時に全員揃って展示されていない。人形同士も相見れないまま散会していくのだ。写真集『薔薇色の脚』には、山尾悠子作に係わった人形が一同に会している。会場からふっと消えた[ハグレ]たちも記録されている。改めてその肖像に触れられる写真集でもある。一人として同じ人形はなく、この多様性の総体が物語る世界が、またもう一つパラレルに存在するのだ。それがつぶさに見られる[肖像廻廊]とでも云うべき写真集になっている。
さて、この写真集には、もうひとつ中川多理の傑出した才能が発揮されている。それは物語を読む力——中川多理は、物語世界から創造のインセンティブを受けている。(もちろんすべてではない)中川多理は誤読を好まない。深読というか…物語に入りこんで綺羅綺羅光るものを拾ってくる。その綺羅綺羅は云われてみればたしかに物語りの中にあって…男の僕には気がつかないもののことが多い…作品の核に据えられる。
何度か…たとえば三島由紀夫の『癩王のテラス』、アンナ・カヴァンの『氷』…物語と人形の関係を聞いたことがある。答えは腑に落ちるものではなかった。人形頭になっていてまだ回復していないと…中川は笑って云う。人形を作る頭と、物語を読む頭は同時に動かない。ましてや物語を語る手はまったくもって動かない。と。写真集『薔薇色の脚』の中川多理の解説には、今まで余り語られなかった人形作家の物語読みの胆が書かれている。そして展覧会に向けて、製作メモ(Note)が発表された。
『ゴールデンカムイ』からチェーホフ『サハリン島』へ
https://note.com/kostnice/n/nbac5348bf847
『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』より宮沢賢治『春と修羅』へ
https://note.com/kostnice/n/n3e21e4a4e571
『薔薇色の脚』出版記念個展に寄せて
https://note.com/kostnice/n/n12cab8875722
このような時代だからこそ、真摯な読書と創作、そして未来を見据える目が必要なのだと…作家の本読みを通じて思うところがある。コロナと戦争の暗鬱な時代を、一閃する出版と展示がこれからはじまる。