山崎努/松岡和子/フラッシュメモリー20220823
島根までの飛行機往復でちょうどだから見ておいたら…ワーニャ伯父さんがただただ読まれているだけだけど…島根には共同開発している無農薬の茶畑があって季節にかよっている。片道1時間ちょっと。別の人にも勧められた。原作の村上春樹とは遥かに異なる脚本で面白いみたいよ。村上嫌いは逆に必須じゃないの。確かに…。村上春樹作品を原作にした演劇をいくつかみたが、面白いものだった。読まれている戯曲が『ワーニャ伯父さん』(チェーホフ)というのもまた気にかかった。ちょうど亀山郁夫を読みながらウクライナ/ロシアの文学に見えてくる…支配者と大衆(?)とのあり方を気にしている。今だからチェーホフなんだろうか。村上春樹が下敷きに使っている?どうなんだろう。ちょっと興味をもって赤いサーブ…80年代のちょっと洒落もののアイテム…の助手席に乗った。ここなら原作も映画も良く見える。ダッシュボードのカセットデッキに、カセットを入れ、吹き込んである『ワーニャ伯父さん』を聞く主人公。運転は雇われた女性ドライバー。女性ドライバーというものは…小説は……はじまった…村上得意の語り口…映画にそれはない。だから良いのか……。村上春樹の小説では黄色いサーブ。もっと業界っぽい。六本木のカローラだっけ…と、いわれていたのは。赤いサーブに乗っていた俳優は、多国言語で上演する、ワーニャ伯父さんのオーディション会場に入る。何人かが組になって演技をする。演技の始まりと終わりを、ディレクターとなる俳優が合図する。カツッ____。机を手で叩く。ノックする。カツツ。なんか嫌な音だ。演出というのは、もともと支配的な仕事ではあるが、無言でカツッは…。…僕は実際に現場では見たことはない。だいたいは手を叩く。はいっと声をかける演出もいる。プロの稽古場をそんなに見たことはないが、寺山修司から尾上菊五郎、井上八千代まで…蜷川さんも見せてもらったか……。こんな冷たい感じの支配的な稽古演技の切り方、[カツッ]は体験したことがない。どうにも気になって、気になって……それで早々と赤いサーブはおりることにした。いや、また近々乗る機会もあるだろうと思うから。代わりに別の車に乗る。
帰宅後、テープを吹き込む。自分の出ている場を序幕から順に全部、相手役のせりふも読む。なるべく感情をこめずに素読み。出来るだけ速く、黙読に近い速度で、一気に読む。片面六十分のテープにうあまい具合に全部収まる。オート・リヴァースにして裏面にもう一度あたまから入れる。~車の運転の時は、カー・ステレオで聴く。~12月6日 土曜日 晴れ。車で行く。カー・ステレオでテープを聴きながら。昨夜車検から帰ってきた車、快調に走る。この車はもう七年乗っているが愛着があって手放せない。家の者はこの車を「ベンちゃん」と呼ぶ。(『俳優のノート』山崎努)
サーブから「ベンちゃん」に…乗りかえる。作品は快楽をもって受けとめたい。『俳優のノート』を教えてくれたのはまたまた山下澄人。「俳優のノート」でエールを交換した話がtwitterに出ていた。山下澄人の演劇観には間違いがない。とことん山下澄人で今までの演劇観にメスを入れてみよう。「ベンちゃん」のカーステレオから流れるのは、松岡和子訳のシェークスピア『リヤ王』…。山下澄人のすすめるブルックの『秘密はなにもない』を読むにしてもとにかくシェークスピアを読まなくては話にならない。シェークスピアはこれまでほとんど読んでこなかった。筋はしっている。芝居を見たから。それだけ。どこかでシェークスピアを読まないと進まないものが目の前にある。またまた偶然だけれど、シェークスピア戯曲全訳を終えた松岡和子の『ロミオとジュリエット』がデザイナーの机の上に乗っていた。(友人でもらったとのこと)借りてもいい?どうぞ…。松岡和子の『リア王』と山崎努の『俳優ノート』の併読——。そして『ロミオとジュリエット』これかな…、シェークスピアの壁抜けは……。『俳優ノート』は、新国立劇場の開場記念公演『リア王』を演じる山崎努の上演ドキュメント。稽古初日から楽日まで。台本に使われたのは、訳したての松岡和子訳。
1997年7月14日月曜日
午後6時半より新国立劇場でミーティング。鵜山仁、松岡和子氏と台本検討のため。——『俳優ノート』はこんな風にしてはじまる。~今日の作業は、カット部分の検討と、和子さんの戯曲解説。~その前に、和子さんの翻訳の直しが3、4箇所。大きな直しは、四幕六場のリア「忍耐だ。我々は泣きながらこの世にやってきたのだ」を「忍耐だ。我々は泣きながらここにやってきたのだ」に。——松岡和子の翻訳は、板の上で役者や演出家と切磋琢磨して[有効]な言葉をフィードバックしてきた。だから松岡訳には松たか子とか山崎努の現場での生理的知的演劇的[台詞]が生かされている。現場の役者にこれほど揉まれた翻訳の言葉は他になかろう。松岡和子のシェークスピア全訳は偉業であるが、さらに偉業としているのは、それを現場の役者の…もがきながらその役者の視点でその訳を身体に乗り写させた……その場面をどう演じたかの…苦労の結晶が反映されている。踠いた揚げ句の結晶……だ。訳語は、芝居の、今の、生きた、身体のある、そうした言葉のつらなりになっている。しかもそこに松岡和子の女子目線が生きている——。で、一方、山崎努は男視線…徹底して。リヤ王だから当然!だけどなかなか貫けない。今のご時世では。山崎努をはじめてみたのはNHKのTVドラマ。和田勉演出。演劇とかにまったく興味も持っていない頃、でも、台詞とか顔とかシーンとかが今でも思い出される。演技の言いも悪いも、演技も分かっていない(それは今もだけど…)その時に、強烈に焼き付いたイメージ。その印象通りの役者の姿がノートにある。ノートの中でも山崎努は大暴れ。大人げないちゃ大人げないけど、それでないと役者はつとまらない。横綱になっても、相手に身体を合わせにいく。でもさしはりとか猫騙しはしない。品格は保つ。本番中に山崎に対してやんちゃをやった役者……注意しても利かないその役者に本気で殴りかかっていったりする。(そうは書いてないけど止められたんだから、拳は最低上げている。そして相手の役者を今も許していない。)小理屈を言って稽古を止める役者に対しても、きつく叱っている。その記述が何度もでてくる。そういう役者を許さないんだ——。いいなぁ。惚れ惚れ——。(僕は本格演出経験は踊りしかないが、言葉を聞いて、分かったことを言うダンサーほど分かってない動きをする。本番でちゃんとやりますと稽古で開き直るダンサー…も嫌い。稽古でできないものが本番で出来るはずがない。本番で出るアドレナリンは他のことに使うんだ!)で、そうした駄目役者のことを、しっかりノートに書いてしまう、出版してしまう。(これほんとは愛なんだけどね……)この大人じゃないところが…すごい役者だなと。他者に対して闘争心のない役者、なくなった役者はだめだ。いつまでも大人げない役者がいいんだ。80歳になるリア王をやる役者は、ダメなところをとことん分かっていて、かつ大人げない…位でないとできない。リヤ王に合わせて性格を変えたのか、山崎の性格がリア王なのか?……偉そうにしない。情けないところをどこまでも晒す…それでいて尊厳を見せる…山崎努の『リア王』を見て自分、ちょっと慚愧だ。
自分の生涯で知っている、あるいは仕事で付きあった演劇の役者たちと、山崎努は明らかに違うところがある。ここまで言葉で自分を追い込んでいく役者を知らない。もしかしてメジャー系の役者でいるのかもしれないが…追い込んでど壺に嵌まって混迷する…それでも一歩たりとも逃げない…(台詞を醸成するために一日休むという記述はあった。これは当然それは混迷中ではない。いけている状態で行うもの…確かに…たとえば絵描きに「スランプは来る、大きな。だけどその時に流行に逃げたり違うことをしたらだめ。スランプの自分にゆったりとつきあわないと…そうするとある時、また時化の爆発が来る。」と僕は言う偉そうに。スランプのときに踠けとは言わない。踠くと抜けられなくなるときがある。何人も見てきたそうして潰れていく人を。山崎努は一歩たりとも引かない。絶対に引かない。潰れてもいいから前に出る。山崎は突然本番前日に混迷する。演出の鵜山に『リア王』のあらすじを言ってくれと請う。胸打つシーンだ。飄々と(してるかどうかは見ていないから分からないが…)答える鵜山もまた山崎努を演出できる人だ。怖がらず…いや本当は怖がっているんだろうな…渾沌のど壺に突っ込んでいく山崎はそれだけで『リア王』をやる役者として相応しい。戯曲の中のリア王も周囲に配慮せず、怖れず我道を突き進む。それゆえ絶望、嘆き、哀しみを体験することになる…そして愛を知るのだ。暴君でも愛を知る権利はある。最期の瞬間には。というリア王を演じるのだ山崎努は。
俳優が自分の生活を役に合わせながら……(ここではリア王に)入っていき、リア王になって初日を迎える。これは分かる。山崎はリアと自分の性格や状況を合わせながら、リア王を自分の方に引きずり込もうとしている。初日、山崎努はリア王になっていなければならない。しかしリア王の方へ行って、リア王になるのではなく、最終、山崎努の身体をリア王に貸してリア王と化す——。ということをやろうとしている。それはノートに明確に書いてある。えっ、と、僕は読んでいてかなり驚く。こっちの身体はリア王の準備できてるからリアの魂よこの身体に降りてこいということでしょ…。降りてこなかったら…どうするの?大失敗というか零でしょ。それをやろうとする山崎努____なんという素晴らしい役者。演技でばくちを打つなんて。凄すぎる。もちろん豪放で細心の山崎。ばくちは勝つためにやるのだと、毎日のように、初日を想像で想定しながらチェックを繰り返している。このノートに登場する山崎努は、若手の役者にも容赦せず襲いかかっていく獰猛な動物でもあるが、その動物を皮膚一枚隔てて見ている[私]がいて、その[私]がこのノートを書いている。主観の感情はひとつも書かれていない。感情を爆発させたことは書いている。何故。どうしても含めて。だからこのノートはとてつもなく面白い。皮膚一枚を隔てて[山崎努]と[リア王]も居て、観客席からはそれが一体の存在に見える。リア王でありながら山崎努。これが山崎努の演技なのだろうが、これはちょっと難しい。どっちかにバランスをずらせば成立するだろうけど。
『俳優ノート』1997年7月14日に戻る。一番最初。鵜山仁、松岡和子、山崎努のミーティング。長丁場の松岡和子『リア王』レクチャーが行われる。間に休憩を挟んでいる。レクチャーされたことはノートにメモされている。このレクチャーを聞いて見たいものだ。戯曲『リア王』の分析は細部にわたり、また大胆な視点も持ち込まれている。母の不在。リア王には母が出てこない。コーディリアの女性の未熟について__。『俳優ノート』にある箇条書きの松岡和子の注意書き。松岡訳『リア王』の役者あとがきには、「オフィーリアにしてもかなりいい加減な女だし……。」という調子で、松岡はリア王の女性嫌悪、母親不在について書いている。「リア王の翻訳は女の身としては辛いものがある」とも。オフィーリア、コーディリアの女性としての駄目なところ(シェークスピアによって書かれた)を指摘する松岡。シェークスピアを読んでいない身としては、「知らなかった!」である。悪い二人の姉と、寡黙で心あるコーディリアという簡単な構造だと思っていた。物語にありがちな……だってどの位愛しているか?と、三人の娘に聞いたら、昔物語だったらだいたい心ある末っ子が割りをくって、最後に……という展開でしょう。それだと思い込んでいたけれど、そういうふうに簡単にはなっていないシェークスピア戯曲は……。松岡和子は、シェークスピアを女性視点……しかも少女視点、母親目線と使い分けて戯曲を読んでいる。『リア王』は男性(おとこしょう)の戯曲。だからその頂点のリア王を山崎努は男らしく演じた。男の良しも悪しきも……まぁ悪しきが多いんだが……それゆえに最後が演劇としては盛り上がる……[男]を身に受けて演じている。すごい。ぶれない。観客だったり、演出だったりの立場は、こんなに役者一人称で、芝居を見れない/読めない。政治的策略劇とか人間嫉妬顛末劇というふうに読めるところもあるだろう『リア王』を、リアという私という男の老年劇として、(ほぼとしてだけ)演じようとしている。役者に俯瞰や客観はいらないのかもしれない。全体はリアの目で見えているように見えれば良いのだ。コーディリアに対しても、男から、父親から、山崎から、リア王から見たコーディリアとして対していく。松岡和子はこの男おとこした芝居を女性の位置で、検証しながら訳していく。コーディリアからリア王を見ることができるし、そうしている。その視点は全体を一つにするのに必要なのだ。だってリア王は歴戦の勇士山崎、コーディリアは高校性が演じている。松岡の視点は必須のものだ。相反する(最終しないのだが)二つの視線が、『リア王』上演の中で混在して踠いて最後に呼応してひとつの方向性をもつ。山崎努は松岡の言う[母の不在]を心にもって舞台に立っている。稽古の中で二人は相互侵犯している。希有な翻訳と演技の関係だ。舞台の現場、俳優の側が大好きな松岡和子ならではの『リア王』である。そして改めて言うが、松岡和子の翻訳の言葉は、新鮮な役者やベテランのまさに身体を張った役者の身体と舞台化された経験に裏打ちされた[今の][板の上で躍動する]生きた台詞なのだ。
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