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少〜し、昔の話を。①


昔といっても今回は新社会人になった時の頃の話と、
1回目の適応障害になった時の話を。

私も、いわゆる20卒で学生時代は1つもだぶらなく
四年制大学の女子大を卒業して、テレビ番組制作に派遣される派遣会社に入社しました。
そう。前回、ノートに少し書いたけど局員ではないんですw

ちょうど20卒はコロナ禍の時期で、
職場もコロナ禍の中、どうするかとか色々と試行錯誤していたことを覚えています。
ただテレビ番組なのでやることは沢山あり大変で、
ただ通常よりかは比較的ホワイトだったと思います。
ここに大体の1週間のスケジュールを書きたいですけど、番組名がバレるのを恐れてかけませんけど、1つ言えるとしたら1週間のうちにお泊まり(徹夜)は1.2回はありましたね。

でも、案外そう言う生活は当時の私にとって凄く自分に合ってたんです。
深夜、日本中のほぼみんなが寝静まってるころに、日本中のみんなのために私はVTRを作ったり、台本を書いたりとしてるんだっていうワクワク感がそこにはあったからです。2年弱アシスタントディレクターとディレクターを少しばかりやらせてもらったあの時の自分、今思えば輝いてたなーと思うんです。

ただ、だだね。
それを上手くやっていけたのってコロナ禍だったからかも知れないなとも思うんです。
また、コロナが明け出して転職した時に、私は人とのコミュニケーションの取り方を少しわからなくなってしまったんです。もちろん、テレビの時よりかは断然ホワイト?いや、ホワイトではなかったかもしれないのですが私に合わなかったっんです。
2社目はCMやMVの制作会社でした。
初めから、アシスタントとして先輩の下につけてもらえず、会社側もこっちの経験はないと知っていたはずなのに、人手不足?なのか1人メインでやることになりました。なのに、名刺の肩書きはアシスタントがついてる。謎ですよね。。。笑
その時のプロデューサーによって私は1回目の適応障害を発症してしまいました。

その人は、会社には全然来ない、
教えてくれるけどまずは否定から入って教える、
教えてくれている時の表情は凄く怖くて(基本、zoomとか googleのオンラインで会話してたので)「そんなことも知らないのか」とため息をつかれる。
挙げ句の果てに、プライドなんか捨ててしまえと色んなことを全否定、
テレビの業務なんて使えないと前職先を否定され、
自分が昔セッ◯ス依存症だったとかなんとか嘆きの話を業務中つらつらとされたりした。

そんな人の元、私は当時そのときにいた職場の人間たちとも上手くコミュニケーションが取れていなかったので誰にも相談することができず、休職も含めて半年で退職しました。その人は、子供ができ、楽しそうな家庭も築いていて、私は退職。私はその時、その人を心の底から恨んだと思う。

その後の3社(適応障害2回目の発症)の話はまた今度にさせてください。
もうすぐ退職するという状況なので。。。

それで思ったんです。
コロナ禍の時に新入社員になった自分は、
元に戻ろうとしてる社会にそもそも適応できてないんだなと。
もちろん、上手くやっていってる同期たちもいる、だけど私は無理だった。コロナのせいなんかにしている話ではなく、ただ環境と自分が合って無かったんだなと思ったんです。上司からの心無い発言もそうかもですが、それを受け流す方法を身につけられなかった。
私、最近そのことに気づいたんです。

適応障害を2回発症してる私はたぶん、
ずーーーっと適応障害だったのかも知れない。
元気になったら断薬、通院をしなくしてしまうから。
3年ずっと拗れてた。20代の楽しい時を無駄にしたなと思ったので、残りの20代はハッピーに過ごしたいので治療に専念し、薬もちゃんと服用します。

再スタート!!
程よく頑張ります。☺︎☺︎☺︎

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