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人と繋がっていられる、という人生のラッキータイムをどう過ごすか【映画「フェアウェル」を観て】

※本noteにはネタバレが含まれている可能性があります。


あのう…質問なのですが、もし自分の余命が残り少ないとしたら、その事実を知りたい派でしょうか?それとも秘密にされたい派でしょうか?
(突然の質問すすすすみませんです)
私は知りたい派です。
(前提として、正解とか無いので勝手に私が書いているだけということをご承知おき下さい)
なぜなら私にとって私の命は私のものであって、つまり私の命に関する情報である「余命」という問題は私のものだから…と思うからです。

映画「フェアウェル」は、おばあちゃんの余命が短いことを知った家族が、絶対に本人に知らせない、おばあちゃんを残酷な真実から守りたい、
とひたすら奮闘する心温まる家族の物語です。
主人公のビリーはアメリカに住んでいて、すぐにおばあちゃんの元にかけつけ、本人に病気について知らせないという中国の伝統に反対します。
なんとかおばあちゃんに真実を伝えて余命を謳歌してほしい、と奮闘しますが、家族からの猛反対を受けて、しぶしぶ嘘に加担することに。
残酷な真実からおばあちゃんを守り抜きたいとする家族の愛情と、
家族としての責務を全うしようとする中国ならではの家族の在り方がとても心に沁みる作品でした。

作中で、とても印象に残ったセリフがありました。
それは、おばあちゃんに真実を伝えない家族に不満をもらすビリーに対して、親族が言うセリフです。

「お前の住む西洋では個人の命はその人のもの
そこが東洋と西洋では違う
東洋では個人の命は全体の一部だ
家族や社会の一部だ」

家族が、おばあちゃんの死に対して、深く痛み、苦しみ、恐る姿は、
まるで自分のことに対峙しているように見えました。
その家族の在り方は、孤独や寂しさという最大の恐怖から身を守ることが
出来る、優しくてシンプルなシステムだと感じました。
寄り添いたい、心を尽くしたい、思い切り愛したい、慈しみたい、
孤独や寂しさは怖い、死にたくない、ひとりぼっちになりたくない、
そんな素直な欲求や恐怖に優しく寄り添う在り方ですよね。


この映画を見ていて、私って素直に愛情を受け取れているんだろうか?
と反省気分になりました。
多分作中でも、嘘をつかれているおばあちゃんはわかっているんですよね、家族から嘘をつかれていることを。
(私はそう解釈しました)
でも誰より明るく陽気に振る舞って「だから大丈夫って言ってるでしょ」と家族の心配を煩わしそうにしている。
私には、おばあちゃんが、おばあちゃんなりに一生懸命家族からの愛情を受け取ろうとしているように見えました。
私はこんなふうに家族からの愛情を受け取れているでしょうか…。
(知らん)
家族からの心配を、「私の問題だから」と手を払い除けた記憶が100万回思い当たります。
でも、頑張りすぎじゃ無いですか?私たち。
(すみません、勝手に巻き込む)
いや、頑張ってるつもりは全然ないな、意地をはっている、の方が適しているでしょうか。
私たちは孤独とか寂しさに、ひとりで立ち向かいすぎなんじゃないでしょうか。
もっと孤独や寂しさに怯えていいし、誤魔化さなくてよくて、そしてそういう時には人を頼っていいんじゃないでしょうか。
人と繋がる、ということは基本面倒なことや傷つけ合いの始まりだと思っています。
でも、自分の家族が生きている、友達がいる、頼れる人がいる、というこのラッキータイムに人に甘えなくて、愛情を表現し受け取らなくて、いつやるってんですか。
(むっ様子がおかしい)
非常に陳腐かもですが、人との繋がりというのは有限で、寿命やその他もろもろの原因による期限付きなので、繋がれている、ということ自体めちゃくちゃ人生のラッキータイムなんだ、って感じます。
さて…自分が強がりすぎていることに気づいたので、
今週末お父さんとお母さんに思い切り甘えに(脛を齧りに)実家に帰ろうと思います、アディオスです。
(それは単にクソ厄介な成人子供)

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