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それでも欲にまみれていっそ地獄に落ちたい(「デッド・ドント・ダイ」を観て20代OLが思ったこと)

※本文はネタバレを含みます

段々と日常が戻りつつありますね!(うれし〜〜ママ〜〜)
街が機能するようになったらいち早く映画を観に行きたいなと思っていたので、早速かねてより注目していた「デッド・ドント・ダイ」を観に行ってきたのである。
(あ〜映画館のポップコーンってうめえ〜〜転生したい)
あ、えっともちろん今回もアダムの素晴らしい筋肉(今回は脱ぐシーンはありませんでした…チッ)と癖っ毛と輝く顔面を拝む事が出来てそれだけで元取れました。

本作のストーリーはなんてことない、アメリカのなんとものどかで時代遅れな田舎町でゾンビが大量発生、ゾンビ発生に対し、街の住人が今まで観てきたゾンビ映画で得た知識を元にゾンビと戦う、というものだ。
(B級映画の匂いプンプンかよ…)
この映画の魅力はなんといっても風刺の効いたブラックジョークだ。
映画のどのシーンでも、風刺が散りばめられていて、終始ニヤニヤしながら一人ででっかいポップコーンを食べる変態と化していた。

のどかな田舎町に住む人々は、白人至上主義の意地悪で頑固なおっさんもいれば、紳士で誰にでも優しいおっさん、ダイナーで働くおしゃべり好きなおばさん、そしてゼルダのコスプレをしたゼルダ(謎ですが映画を見ればわかります。謎にゼルダ出てきます)、森に隠れるように住む変人など、自由気ままな生活を送っている。
ある日、地球の自転軸がずれた(制作側の無茶な設定)かなんかで、異常気象が発生したり、ペットの野生化などの動物の異常行動が散見されるようになる。
そしてついに、謎にゾンビが墓から蘇り、街の人達を襲い始める。
街の人々は、バイオハザードをはじめとする歴代ゾンビ映画を観まくっているので、冷静に首を狙ってゾンビをぶっ殺していく。
ゾンビは生前の行動を取りたがる習性があるため、Wi-Fiを探したりBluetooth接続に躍起になったりと、まるで生きている人間のような行動を取る。
だが、死んでもなお何かに執着したり、物欲を抑えられないその姿は、まるで生きている人間だと、この映画は言う。
(私も多分ゾンビになったらずっと甘いもの探してると思います…)
物質主義社会にどっぷり身を委ねた人間は、ゾンビそのものだと。
そうして街の人達は、皆から愛された心優しい人も、大して欲を主張していなかった穏やかな人も、意地悪なレイシストも、都会からやってきた旅行客も(なぜかセレーナ・ゴメスがちょい役でぽっと出演していてわろいました)ゾンビに食われるのである…。


え、欲にまみれてなんで悪いの?
(あれ、制作陣の大きなため息が聞こえたような気が…)
無欲である事って素晴らしい事なのだろうか。
(あれ、ヨガとか瞑想やってたんじゃないの?という問いには答えません)
むしろ無欲こそ虚しいと思ってしまうのは未熟な人間の証拠なのだろうか?
「欲」こそ、生きている証拠であり、自分の好奇心に正直に生きている事の現れだと思ってしまうのは私だけだろうか?
だって、例えば何の知識も無かったら、世界に’それ’が存在している事を知らないし、’それ’に付随してさらに世界が広がっている事にも気づけない。
本やネットや映像作品などから情報を得て、「こんな世界もあるんだ」「こんな考え方もあるんだ」「こんなツールがあるんだ」と知って初めて、「これ欲しい!」となるわけであって、何かを欲するということは生きる事そのものであり、好奇心そのものだと思う。
もちろん求める過程の中で、誰かから奪ったり、傷つけたりすることはナンセンスだと思うし、そういう、人間特有の危険な思想や感情と紙一重である事は知っておくべきだとは思う。
でも、そこばかりに焦点を当てないで。
もっと素直に欲して。
もっと知って。
むしろ世界に多種多様な欲がはびこってくれよ。
と思ってしまう。
欲する事は楽しいから。

だから、今はまだこの映画に心から賛同は出来なかった。
(私がまだまだ未熟でこの映画を理解するレベルに達していないだけかも)
いつか私が欲する事に疲れたら、欲する事を虚しいと思ったら、またこの映画を観てみようと思う。
今はまだ、仏教の世界で「畜生」と呼ばれる存在でいたい。
死んだら地獄にむしろ落ちたい。
ので今日もネットで買い物しまーす!!
(もう一度制作陣の大きなため息)

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