歴代の哲学者たちが考えていたムダの極致みたいなたわごとが、AIによって蒸し返される時代

哲学を学ぶのはムダ


哲学ってなんの役に立つんですかね。

哲学を学んだところで、就職に有利になるわけでもない、飲み会で盛り上がるネタを提供できるようになるわけでもない、社会に何か還元できるわけでもない。

哲学を学ぶのってムダでしかないですよね。
しかもモテないし。
大学の専攻が哲学だった友人は未だに独り身ですし(n=1)。

ここまでで、すでに哲学大好きっ子さんからのお叱りを受けてしまいそうな感じですが、全部個人の感想です。

でもまぁ、いくら哲学を学べば論理的思考が身につく~とかいうても、別に題材は哲学じゃなくてもなんでもいいし、「我思う、故に我在り」とか言われてもねぇ。

ムダなことを考えるより娯楽を楽しみたい

なんでもいいですが、ものごとを深く考える、同じことについて何度も何度も繰り返し思考するという行為を普通の人はしませんよね。

時間のムダ。タイパごっつ悪い。

世の中の大多数の人々はそんなことに時間を消費するよりも、Youtube見たりtiktok見たり、まぁもっと上の世代だとテレビでワイドショー見たりゴールデンタイムにバラエティ番組見たり。

そっちのほうが楽しい。

というか現代は他にも腐るほど娯楽の選択肢があるので、もっと瞬間的に快楽が返ってくる行為を格安で享受できます。

スマホでガチャゲーに課金したり、パチンコしたり、アイドルの推し活をしたり、昼寝したり、スポーツで汗を流したり、キャンプで自然を感じてみたり、仲の良い友人と飲み会で懐かしい話で盛り上がったり、ディズニーランドで映えるセルフィーを撮ってインスタにあげたり、Netflixでオリジナル作品を見たり、ペットの散歩をしたり。

それらに比べて、思考するという行為のなんともつまらないことか。
時間だけは消費するくせに、何も返ってこないし、脳が疲れる。

ドMな思想家のレジェンドたち

でも、この思考するという愚行を突き詰めた人たちが過去にわんさかいて、まぁ中には自我が崩壊するまで考えたり、考えるを通り越して自殺しちゃったり、もう信じられないくらいバッキバキに仕上がったすごいドMたちがいたんですよ~。

ムダなことを考える、という贅沢

現代から見て思うのは、そういう人たちは単に遺伝子コピーのミスでそういう性質を持ち、ドMな行動を取らざるを得なくなったともいえるのですが、よく考えると当時の社会環境を鑑みるに、年がら年中どうでもいいことを考え続けることができたのはすごく贅沢なことだったんだなとも思うわけです。

要するに暇だったということです。

日々を生きるために日銭を稼がなくてはいけない大多数の労働者には、一日中物思いに更けている暇はないのです。

ところがこのドMたちは、裕福なり援助を受けたりしていて、あくせく働く必要がなかったわけです。

ただ、逆に裕福で暇があれば後世に残るような思想を生み出せるのかというと、そうではないとは思いますけどね。
だって中東の産油国に住んでる王族からそういう話出てこないですからね(もちろん、存在しているけど認知していないだけの可能性もある)。

なので、腐るほど人生の時間を持て余していて、かつ遺伝的に何かものすごい偏向があり(極度のコミュ障で友達ができずに引きこもるなど)、環境的に格安で快楽を得られるサービスが存在していない場合に、歴史に名を遺すレベルの思想家が生まれるのではないかなと。

そう考えると、今の日本にもそういうタイプがいないとも言えないですね。

スマホも持たず、ネットにつながっていない部屋で絶賛引きこもり中の子ども部屋オジサン/オバサンなどはこの条件にピッタリ当てはまるので、ぜひ自分を見つめ続けて何かに辿り着いてもろて。

現代に蘇る思想家たちのたわごと

ここまで来てようやくタイトルを回収できるのですが、ディープラーニングを引っ提げて登場した今の第3次AIブームによって、「それ、何の役に立つの?」と人々に思われていたレジェンド思想家たちのたわごとが価値を持ちつつあるという、なんかすごいようなそうでもないようなことが起こりつつあるんです。

例えば、有名なトロッコ問題

自動運転AIを搭載した車なり電車、航空機が走行中にコントロールを失ってしまった場合、どういうプログラムによってどういう対応をするかが問われます。

例えば、自動運転車が制御不能に陥り、歩行者がうじゃうじゃ歩いている交差点に突っ込まざるを得ない場合、誰に向かって突っ込んでいくのか?

ベビーカーを引く女性より杖をついている老人を優先して轢き殺すのか?
カップルよりアキバ系ヲタク風の男性を優先して轢き殺すのか?
年収の高そうなスーツを着た男性より浮浪者っぽい恰好をした男性を優先して轢き殺すのか?
有名タレントより一般人を優先して轢き殺すのか?
イケメンよりも不細工を優先して轢き殺すのか?

倫理的に答えのない問題なので、プログラムを書くプログラマーが功利主義かどうか、みたいなもので決まるのかもしれないですが。

他にも、今話題のChatGPTを筆頭に、著しく進化を遂げたAIにより、チューリングテストを軽々と突破してくるテキスト対話型のAIが登場してきています

このまま時代が進めば、近い将来に合成音声でまったく人間と遜色ない返答ができる音声対話型のAIが登場し、さらにメタバース的なVR空間で生身の人間が操作するPC(プレイヤーキャラクター)に混ざって存在するNPC(ノンプレイヤーキャラクター)にこの技術が導入されると、もう人間には相手がPCなのかNPCなのかの区別はできない世界がきます。

これってもう哲学的ゾンビの世界ですよね?

あとはちょっと強引ですが、シンギュラリティがおいでなすって、医療技術が超革命を起こしたとして、精神を電子データ化してWeb上で半永久的に生きることができるようになったら、死とは何か?についてみんな考えるようになるだろうし、

3D臓器プリンターで作った臓器をひとつづつ入れ替えて行って、脳まで取り替えたらそれは元の個体とは別個体なのか?とか、

恋人が亡くなったので、生前の恋人の行動・仕草を完全模倣するアンドロイドを提供するサービスに登録し、数年後に本人が亡くなった後、未亡人アンドロイドが同サービスで(元生身の人間の)恋人を模倣するアンドロイドを購入して2体のアンドロイドが日常生活を送り続ける世界観、そこに愛は存在するのか?みたいな

レジェンド思想家たちが考えていたことはムダではなかったということですね。

おしまい


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