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先生のまわりぐるぐるの謎

一般論

私たちはしばしば"謎"の第一発見者となる。
世の中の大抵のことはすでに解明されているけど、その答えを知るきっかけがなければ謎は謎として留まり続ける。そしてそれはまるで自分だけの感覚であるかのように不安がる。対象を目にするたびに、その感覚を通してものを見るようになる。意識のうちにないだけで、最初に発見した"謎"のまま放置していて、今も私の見方のバイアスに関与している感覚って多分たくさんあると思う。

経験談

小学生の頃、教壇に立つ先生の顔をじっと焦点を動かさないように見つめ続けたら、その周囲がどんどん白くぼやけて霧のように先生の顔を取り囲んで、まるで先生の顔がぽっかり浮いて見えてくる現象が面白くて繰り返しやって遊んでいた。
そんなある日、いつものように先生がみんなの前でお話をしていた時のことだった。
先生はいきなりこっちを見て、私を指差して言った。
「特にまいちゃんは、先生が話してる時いつもじっと先生の顔をみてくれてて、よく目が合うんです。だから先生も、ああ、まいちゃんはよーく話聞いてくれてるんだなって分かるんですよ。皆さんも人の話を聞くときは、相手の目をちゃんと見て聞くようにしましょうね」
唐突に教室の生徒たちの注目を一点に浴びることになり、頬が赤くなる。みんなふむふむと、感心顔で私を見つめて聞いている。目のやり場に困って俯いて床などを見つめる。私ってそんなに先生のお話熱心に聞いていたっけ?
そのときは恥ずかしさで頭が真っ白になって気づかなかった。
だが後になって落ち着いて考えを巡らせたとき、私は授業の退屈から先生の顔を見つめ続けてやる遊びにはまっていたのだということを思い出したのだった。


さて、今の笑い話はほんの余談であるが、先日この現象に名前が付いていることを知り、長年の謎の感覚(もはや自分だけの特性とまで錯覚して意識すらしていなかった感覚)にようやく結論が出た。この現象は、「トロクスラー効果」というらしい。そして、この効果の原因は、眼球のサボりぐせによるものらしいのだった。

私たち人間はすぐに楽な方へ楽な方へと流されて、やらなきゃいけないことを締め切りまでほったらかし前日に泣き目を見たりする。前日に泣き目を見るような滑稽なことにはならないといえど、その"サボりぐせ"の傾向は、人間の体の無意識が支配する領域にも及ぶらしい。
私たちがものを見るのは常に眼球が微動し続けているおかげだという。眼球が動くということは常に新しい光の情報が目を通じて網膜に映し出され、ひっきりなしに脳に伝達されているということである。
でも、眼球が固定される、つまり新しい情報が入ってこなくなると、目に入ってくる光が前と同じ情報であると判断されて見る必要性がなくなり、脳への伝達をやめてしまうのだそうだ。
まあいわばエコシステムのようなもので、効率よく作られているという点で私たちの体は優秀なのである。「サボりぐせ」なんかではない。そんな風に言ってしまったら眼球に失礼である。申し訳ない。

いや、でも、ということは、私たちが締め切りギリギリになってようやく仕事に精を出す傾向にあるのも、この身体に備わるエコシステムによる本能なので、むしろ褒められるべき優秀な生命の証拠なのではないか?
…と言いたくなるけど、きっとそれはただ単に嫌なものから逃避したいという煩悩による"サボりぐせ"によるものなのだろう、悔しいけれど。


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