見出し画像

高齢化時代の政治と人権と安楽死

最近の青年の主張のなかには「高齢者は敵だ!」「介護や医療を削減しろ」みたいな発言が多いですが、まあ非常に無益な主張だなと思います。

政治的に高齢者の票が多いというのはもちろんですが、それだけじゃなくて、誰にでも親はいるし、親の介護や病気はやってくるんですよね。そのときに介護や医療が提供されなかったらどうするつもりなんでしょう。

そうなれば子供が負担するだけのことになるんですよね。

ですから、高齢者の介護を削減するような主張は、高齢者からだけでなく、まともな若年層からも受け入れられることはないでしょうし、仮に受け入れられたとしても、自分たちの首を絞めるだけのことになります。

実際に大勢の高齢者がいる以上、なんとかして支えていくしかないわけです。


その一方で、当然ながらすこしでも負担を減らしていく努力もしなければならないのも自明です。

そのためには高齢者を敵とするのではなく、味方とするような言説をしなければいけません。

高齢者がいちばん恐れるのは、やはり病と苦痛であり、自分の子供に迷惑をかけてしまうことでしょう。当たり前ですが、ボケてからも長生きしたいと思う人はいませんし、苦痛な延命治療を受けたい人はいません。

高齢者と若年層の利害は、じつは共通しているのです。

それなのに無駄な対立を持ち込むことは有害無益としか言いようがありません。

敵は、高齢者票のほしい自民党であり、医療費が欲しい日本医師会なのです。そこを間違えてはいけません。


では、どのような主張をすべきなのでしょうか。

  1. 回復の見込みのない患者への本人の意思による積極的安楽死の導入

  2. 回復が一切見込めず、意識や認知が失われている患者への延命措置の禁止

  3. 回復が見込めない重度認知症患者の延命を行うような過度の介護の禁止

これらを最低限、一刻も早く導入すべきです。

医療経済の問題ではなく、人権と尊厳の問題です。現在は高齢患者を食い物とするような医療や介護や家族のせいで、高齢患者の人権が侵害されています。

逆に言えば、お金がかかるとしても、健康かつ苦痛なく生きるために必要な治療は全力で行うべきであり、それを保証することも必要です。

高齢者への医療を無駄だとか言えば、高齢者やその家族からの賛同は得られなくなり、政治的実現はなくなります。


筆者の祖父がたしか99歳で他界したとき、それまで元気で自活していた祖父が体調が悪いと言いました。

本人は介護などの手配を自分でしたものの、積極的に治療を受けることはなく、親族の世話をすこしだけ受けて、医師に在宅で看取ってもらいました。

変に治療して、入院させられたりすることは望まなかったでしょうし、ましてや要介護になったりすることは耐えがたいと思ったことでしょう。

もし積極的安楽死という選択肢があったらどうだったでしょうか?

逆説的ですが、積極的に治療を受けて、ぎりぎりまで健康な生活を送り、要介護になりそうになれば安楽死を受ける、そういう選択肢で、もっと長く生きられたかもしれないとも思うのです。

本人がそれを望んだかどうかは知る由もありませんが、積極的安楽死というのは逆説的により長く生きるための方法にすらなりえるのです。


無駄な対立をすることなく、真に高齢者のためになる施策をみなに考えてほしいと心から願います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?